主人公の大きなあくびは、先生にうつる

そしてさらに最高なのが、その後、先生にあくびがうつるところ。

あくびがうつる、って何かイイよなあ。と私は思う。ちょっとした秘密の共有。親しさの証になる。

主人公の大きなあくびは、先生にうつる。そして先生は言うのだ。「コーヒーでも、飲みますか?」と。

これ以上スマートなコーヒーの誘わせ方があるだろうか! と作者の手腕に私は震えてしまう。作者からすると、初対面の主人公と先生にコーヒーを飲んでほしい。そしてそこで行われる雑談が物語のキーになる。

だけどいくら大学の先生と生徒だからって、たとえばレポートの提出とか、研究室のお手伝いみたいな、凡庸な出会いになってしまうと、あまりにそっけない。というか、読者の興味を惹けない。たぶん下手な作家だったら、レポートの提出がてらコーヒーを飲むことになるんだろうけど、そうしないのが北村薫。ちょっとした特別な出会いをもって、ふたりにコーヒーを飲ませる。

なんという名場面。最高の「パンをくわえた女子高生」、じゃなかった、「あくびをした女子大生」である。

 

私たちはこの場面を読むだけで、なんとなく「あ、この先生が重要人物なんだな」と察する。

それは私たちのなかに物語のセオリーが共有されているからだ。そしてそのセオリーを使っていることなど認識させないくらい、作家がひっそりと技術を使っているからだ。

名場面をひもとくと、小説の面白さが浮かび上がってくる。

こんなささやかな出会いにすら、「名場面」は転がっている。


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