北村薫『空飛ぶ馬』から見る出会い
そこで今回取り上げるのは、稀代のド名作『空飛ぶ馬』(北村薫・著)の物語の冒頭。
『空飛ぶ馬』の主人公は、本好きの文系女子大生。昨晩本を読んでいたから、今朝も眠い。眠い目をこすりながら来た大学は、まさかの休講。
そこであくびをしたところ、「先生」に出会う、というのがあらすじだ。
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私はしいんと静まり返った廊下の方に向きを変えると、両手を脇にぐっと伸ばし曲芸をするおっとせいよろしく胸をはってあくびをした。してしまった。自分でいうのもなんだけれど、少しは可愛らしいと思っている顔にとってこれは致命的な行為であろう。大きく口を開けるために必然的にしっかり目を閉じたから、真ん前のドアが開いたのに一番先に気がついたのは私の耳の方だった。
体によくない。心臓とあくびと一緒に口から飛び出すかと思った。
「……や、こりゃあ」
ドアを開けた相手は私にとって屈辱的な言葉を口にした。もっとも、これは主観の問題でその時の私には《吾輩は猫である》といわれても屈辱的であったろう。公平にいって向こうに責任はない。それに口調は嘲弄でも驚愕でもなく、申し訳ないといったものだった。考えてみれば、こんな時に出る文句は、や、こりゃあ、ぐらいしかないのかもしれない。そして私も、あくびを呑みこんだ口を必要以上に小さく開いて、いたって曖昧にいったのである。
「……あ、どうも……」言葉に色がつくものなら、この《あ》も《どうも》も真っ赤だったろう。間の抜けた答えをしながら、私は相手が近世文学概論の加茂先生だと気がついた。
(中略)
「ふーん」
先生は何と続けようか考えているような顔をした。けれど、すぐにその唇が曲がり始めた。あくびが出そうになって噛み殺しているのだと、私は気付いた。私のがうつったのである。幸せなおかしさ、とでもいいたいような気分になって私はにこりと微笑んでしまった。先生は悪戯を見付けられた子供のような顔をした。それからにっこりしていった。「コーヒーでも、飲みますか?」(『空飛ぶ馬』p14-15、北村薫、創元推理文庫)
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