私にとっての母は、生前の元気な笑顔のまま

そのとき、母の顔を見つめながら、「おまえ、死んでもきれいだな」と思ったということを、私は先日の配信イベントで初めて父の口から聞きました。それを聞いた私は、「ああ、やっぱり、父は母のことを大好きだったんだな」と妙に納得しました。もちろん母も父を愛していたけれど、父は惚れ込んでいましたね。

母はいつも鳥のように大空を飛んでいて、その姿をずうっと見ていたのが父。彼女を自由に羽ばたかせないと死んじゃうのがわかっていたから、父は文句ひとつ言わず見守り、母はのびのびと生きることができた。

それにしても、こんな形で私たちの前から姿を消すなんて、こわいくらい「母らしいな」と思わざるをえません。生前のイメージのまま、弱った姿を誰にも見せず、「じゃあね、またね!」と言うかのように、さっと旅立ちました。

母は自分が苦しんだり、弱ったりしているところを絶対に人に見せない。体調がよくないときは「部屋に入ってこないで」と家族に言い渡す人でした。19年末に乳がんの手術を受けることも、しばらく私たちに隠していたくらいです。

悔やまれるのは、発熱後の自宅療養の数日間のこと。母に容体を聞くと「大丈夫」と。でも、もともと「平気、平気」と強がる人なのだから、もっと気をつければよかった。がまん強い母が、最後のほうは「しんどい。食欲がない」と言っていました。とてもつらそうなのを父が察知して、かかりつけ医に見てもらい、その後入院となりました。

感染予防の観点から遺族が火葬に立ち会うことも認められず、私がようやく母に会えたのは、遺骨になってから。だから、私にとっての母は、生前の元気な笑顔のまま。母はそのことを悪くは思っていない気がします。

自宅で自主隔離を続けていた父と再び対面で話せるようになったのは、5月頭でした。この間ずっと、父は亡くなった母との思い出あふれる家で、たった一人で過ごしていました。そんな父の救いになったのは、孫の存在だったようです。しょっちゅうテレビ電話をかけて、私の娘とおしゃべりをさせました。「ばくちゃん」と娘に呼ばれると、父に笑顔が戻った。父に孫がいてよかった、と心底思いました。