「シェイクスピアのおかげで一日のうち数時間でも現実から離れられたことが、心の健康にも役立ちました」

自宅に戻ってからはほぼ寝たきりでしたが、在宅医療、訪問看護、介護のプロたちに本当に助けられました。自宅のリビングに介護用ベッドを入れ、その隣に簡易ベッドを置いて、夜は近所に住む娘か私が交代で仮眠。

二人とも痰の吸引のやり方を覚えて、夜中も数時間おきに吸引していました。精神的にも体力的にも追い詰められましたが、実は逆に、翻訳の仕事に助けられたのです。

 

阿部寛さんの声にイメージを膨らませて

吸引を終え、夫が眠ったことを確認すると、隣の書斎に駆け込んで16世紀イングランドにダーッと没入。すると、一瞬で現実を忘れてしまいます。言葉の一言一句をどうするか、職人的な思考をしつつ、実際の王様はどんな佇まいだろうと空想したり。

介護が一番大変だった時に訳していたのが、『ヘンリー八世』でした。主役は阿部寛さんでしたので、阿部さんはどう演じるんだろうと頭の中でイメージをふくらませて。面白いもので、戯曲の翻訳はキャストが決まっているほうがやりやすい。阿部さんの声にはずいぶん助けられましたね。シェイクスピアのおかげで一日のうち数時間でも現実から離れられたことが、心の健康にも役立ちました。

1年間の闘病を経て、夫は80歳で永眠しました。振り返ると、あの時ああしておけば……と後悔することだらけ。でも夫は、愛する家族に囲まれて幸せな最期だったんじゃないかなって。ぶつかり合った日々もあったけれど、最後は私もそばにいられた。今は夫のように死ねたらいいなと思うのです。