母ちゃんは、確かに延命治療を拒みました。でもこれは、「早く死にたい」と望んでいることとは違います。誰でもいつかは必ず死ぬのだから、限られた時間を自分らしく暮らす、と決めただけ。その証拠に、母ちゃんは5年前から「やっておきたいこと」をノートに書き出していたそうです。
このことは最初、ノートを見せてもらったという妻から教えてもらいました。「銀座の資生堂パーラーでパフェを食べてみたい」「北海道に行きたい」「マカロン食べたい」「家族みんなで屋形船に乗りたい」……。なにを真っ先にやりたいか妻が尋ねると、「屋形船!」と即答だったとか。
そのことを聞き、母ちゃんに連絡すると、「家族だけじゃなくて、これまでお世話になった人、淳が仕事でお世話になった人、みんなを呼びたい」と言います。19年秋、けっこう大きな船を仕立てて、東京湾での船遊びという夢を叶えてあげることができました。
母ちゃんの最後の希望
年が明けて国内外にコロナウイルスが蔓延すると、実家に思うように帰れない日が続いて。そんなある日、母ちゃんの着物をリメイクしてつくったバッグが、妻のもとに届きました。妻が泣いているので理由を聞くと、「死んだらこれをあげる」と言っていたものらしいのです。
慌てて主治医に電話をして「余命を教えてほしい」と頼むと、「もって1年」と告げられました。まだまだ大丈夫、と思っていたので、さすがに頭が真っ白になりました。母ちゃんは、薄々予感があったのかもしれない。そうであったとしても、これはちゃんと本人に伝えないとダメだ、と考え直したんです。それで緊急事態宣言が明けてすぐの6月、下関に帰りました。
父ちゃん、母ちゃん、弟と4人で、ちょっといい天ぷら屋さんへ。食事が進んだころに、落ち着いて余命の話を切り出しました。がんの転移が進んでいること、もって1年であることを告げると、母ちゃんは「そうかな、と思ってた。でも母ちゃんは余命を超えると思う」と笑いました。家族4人で食事をしたのは、僕が18歳で上京する前の晩以来。そして、これが最後になってしまいました。