「母ちゃんは、確かに延命治療を拒みました。でもこれは、「早く死にたい」と望んでいることとは違います。誰でもいつかは必ず死ぬのだから、限られた時間を自分らしく暮らす、と決めただけ。その証拠に、母ちゃんは5年前から「やっておきたいこと」をノートに書き出していたそうです」

屋形船遊びをしておきたい!

母ちゃんが延命治療に対してはっきり拒否を示していたのは、看護師だったことも大きいと思います。患者さんたちを看取りながら、「こういうお別れの形はイヤだな」「これは理想だな」という考えが固まっていったのかもしれない。意識が混濁した状態で、薬で長く生かされている友達の話をしながら、自分はそれを望まない、と言っていたこともありましたね。

僕は山口県下関市の最南端にある彦島(ひこしま)で生まれました。母ちゃんは僕と弟を保育園に迎えにくると、なにかしら面白いことを言って先生方を笑わせているような、明るくて面白くてサバサバした人。僕がいつも母ちゃんに言われていたのは、「他人に迷惑をかけるな」と「やりたいことをやりなさい」ということでした。

つまり、自分のやりたいことをやるのはいいけれど、他人に迷惑をかけずにやれ、というのが母ちゃんの教え。そう考えると、「延命治療はしない」というのも、ある意味母ちゃんらしい選択だったのかもしれません。

地元で漫才コンビを組み、芸能界に進みたい願望を強く持っていた僕は、両親に反対されながらも高校卒業とともに上京。東京で相方の(田村)亮さんと出会い、吉本興業の所属芸人としてロンドンブーツ1号2号を結成しました。

食べられない時期もあったけど、それでも結成から5年で冠番組を持つことができた。徐々にMCの機会が増え、お笑いにとどまらない幅広いテーマに取り組めるようになって、結婚もして……。母ちゃんのがんが発覚したのは、そんなさなかの2015年のことでした。

2年後に再発がわかり、これ以上の延命治療をしないと決めてからは、できるだけ実家に帰って母ちゃんと過ごす時間をつくろうと考えました。ちょうどそのころ、福岡でレギュラー番組を持っていたこともあって、コロナ禍以前は下関にもちょくちょく顔を出すことができたんです。

「あと何回、会いにこられるだろう」という思いが胸をよぎることもあったけど、あえて特別なことはせず、いつもと変わらない日常を心がけました。体調のいいときはごはんをつくってもらい、母ちゃん自家製味噌入りの味噌汁を食べる。18のときまで自分が座っていた席に座り、家族や仕事の話もたくさんしました。