‘Minamoto no Yoshitsune in harnas’, by Utagawa Kunisada(一部)
Image via Rijksmuseum Amsterdam
英雄は勇ましく猛々しい……ってホンマ? 日本の英雄は、しばしば伝説のなかに美少年として描かれる。ヤマトタケルや牛若丸、女装姿で敵を翻弄する物語を人びとは愛し、語り継いできた。そこに見た日本人の精神性を『京都ぎらい』『美人論』の井上章一さんが解き明かす本連載。第3回は「出っ歯とそしられて」、前回に引き続き「牛若」を取り上げる。

前回●義経を女装者にしたてたのは誰か。僧侶たちにも天狗にも…

平家の打倒を念じつづけて

源義経の伝説は、その多くが『義経記』に由来する。ひきつづき、この読み物によりそって、義経の物語を追いかけたい。

自分の使命は、平家をたおすことにある。鞍馬寺にあずけられた牛若は、そう考えだした。東光坊の阿闍梨は、これをいさめようとする。寺の面々ともはかり、牛若の剃髪をいそがせようとした。

だが、牛若はうけつけない。僧侶にはなりたくないと言う。見かねて、覚日坊の律師は、やはり鞍馬寺の住職だが、助け船をだす。牛若は自分があずかろう。自分の庵は、はずれにある。人もあまりこない。のぼせた頭をひやすには、うってつけの場所である。そう寺僧たちにもつげて、牛若をひきとった。

鞍馬天狗「僧正坊」のもと、牛若丸が修業している様子 
「僧正坊 鞍馬天狗 牛若丸」(河鍋暁斎・画)
Image via Los Angels Country Museum of Art

覚日坊のもとで、牛若は遮那王(しゃなおう)と名前をかえている。しかし、いちどめざめた少年の野望は、なくならない。あいかわらず、平家の打倒を念じつづけることになる。

そんな遮那王を鞍馬で見かけて、吉次信高は、京都の商人だが、おどろいた。なんて美しい稚児なんだ。どなたのお子様だろう、と。「あら美しの御児(おんちご)や。如何(いか)なる人の君達やらん」(岩波文庫 1939年)。『義経記』には、吉次の感銘ぶりが、そうしるされている。

この吉次に、遮那王は身の上をつげた。自分は源義朝の子である、と。

聞かされ、吉次は考えをめぐらせた。以前より、奥州平泉の藤原秀衡(ひでひら)から、たのまれている。源氏の嫡流となる子弟の、知遇をえたい。いい人材がいれば紹介してくれ、と。そして、遮那王は源氏の直系であるという。ちょうどいい。この子を秀衡にあわせようと、もくろみだす。

奥州藤原氏のもとへ、いっしょにいかないか。そう吉次からさそわれ、遮那王はとびついた。彼らとの連携が、平家打倒への第一歩になるかもしれないと、考えたせいである。

写真を拡大 瀬田は琵琶湖の最南端に位置している。古い文献には勢多とある。瀬田という表記でかためられたのは、近代以後かもしれない。東日本と西日本をむすぶ要衝でもある。瀬田川にかかる橋は、壬申の乱をはじめいくたの内乱で攻防の対象となった。瀬田をすぎれば、もう東国へむけて第一歩をふみだしたことになったのだろう