違和感を洒落で回収できた時代が懐かしい
人というのは「こんなはずじゃない」という予定調和の崩壊にめっぽう弱い生きものである。家族にしても、会社の上司にしても、そして社会や地球全体の出来事にしても、自分がそうだと信じている筋書き通りにならないことに対して、不平不満や裏切られた気分を抱くようにできている。
芸能人の離婚や浮気というゴシップに多くの人の関心が集まるのは、「まさかあの人がそんなことを!?」という、特定の人物に対して抱く一方的なイメージの“予定調和”を覆されるからだろう。
私が子どもの頃、母の目を盗んでこっそり見て楽しんでいた番組に『ドリフ大爆笑』というのがあった。
この番組のメインは「もしもこんな〇〇があったら」という寸劇だったが、寿司屋の大将であろうと校長先生であろうと芸者であろうと、志村けんさんを始めとするメンバーが演じる常識から逸脱した素っ頓狂な人物の振る舞いと、それに戸惑う常識人としてのいかりや長介さんのリアクションには皆、腹を抱えて笑い転げたものだった。
考えてみれば、あのネタはまさに予定調和を覆される動揺を洒落に昇華し、思い通りにならないことであってもこんなにおかしい、という楽観と笑いで回収するものだった。
メンタルが狭窄的になればなるほど思い通りにならない人の態度や社会に人々は不満を抱き、予定調和への軌道から逸れることを拒絶するようになる。成田離婚も新婚旅行先が慣れない海外だったからこそ、切迫した夫の態度が同じく切迫した妻には許せなかった、という精神的ゆとりの枯渇がもたらした結果だとも言える。
今のご時世、『ドリフ大爆笑』のような番組が受け入れられるような空気が希薄なのはわかっているが、違和感を洒落で回収できたあの時代のゆとりを、懐かしく思ってしまう今日この頃である。