文学や芸能は美貌説、歴史が出っ歯説をたもたせる

それだけ、江戸期の文芸が、義経の美形説へ傾斜していたせいだろう。庶民の読み物や稗史類は、一方的に美貌の義経像をあおっていた。おりめただしい歴史家としては、釘をさしておく必要がある。そんな思惑もあって、『本朝通鑑』などは、出っ歯説を記入したのかもしれない。

『平家物語』にはじまる出っ歯説は、まず大人の義経を語るところに延命した。北陸からの脱出をあつかう幸若舞や、『義経記』の後半に、姿をとどめた時期がある。だが、江戸の文芸は、それをほとんど一掃した。美形説ばかりをはやすように、なっていく。

そうして、文芸から追放された出っ歯説は、歴史叙述に生きのびた。文学や芸能は美貌説にかたむき、歴史が出っ歯説をたもたせる。両説のそういうすみわけが、江戸時代にはできていたようである。

かつては、義経の年齢におうじ、文芸のなかで分配されたこともあった。それが、読み物のジャンルべつに再配置されたということか。

しかし、『平家物語』の出っ歯説が正しいというわけでは、けっしてない。この軍記物は鎌倉時代の前半に、形をととのえた。義経が生きた時代の、同時代な記録ではない。後世の編纂物である。出っ歯説も、事後的に増幅されている可能性は、けっこうある。

義経は出っ歯であるという。この指摘が『平家物語』で語られるのは、壇ノ浦海戦の直前にあたる部分である。ほろびゆく平家への挽歌をかなでる。入水する安徳天皇の可憐さ、美しさをうたいあげる。その前触れめいた箇所に、義経の品定めは挿入されていた。

おかげで、義経の容貌評価は割をくったかもしれない。美化されるべき平家や安徳帝の、そのひきたて役があてがわれたようにも思える。真理をうがっていそうに見える出っ歯説も、うのみにはできないと言うしかない。