ピカソ展の間に、突然、「絵を描こう!」と

三島さんは、いつも「生」のなかで「死」の問題を純粋に捉えていた方だと思うのです。晩年はそれこそ毎日、切腹するような気持ちで生きておられたのではないかと思います。毎日が切腹。そして、70年11月25日が本番だった。

ものを創造する人間にとっては、毎日が地獄です。器用な人は絵や文章を上手に書くかもしれないけど、追い詰められた生き方をしないと芸術は生まれない。三島さんが切腹した時、そう突き付けられた気がしました。僕も毎日ダンテの「神曲」を生きているつもりです。

大きな転機が訪れたのは、40代です。それまで自分は生涯、グラフィックデザイナーで行くと思っていたんですよ。ところが80年、ニューヨーク近代美術館で行われたピカソ展を見ている間に、突然、「絵を描こう!」と思ったんです。「描きたいな」ではなく、「描かなきゃいけない」と、霊感のような強いものを感じました。美術館に入る時はグラフィックデザイナーだったのに、出る時には画家になっていた。そういうことが人生にはあるんですね。半ば宿命的なもので、その運命に従っただけ、という気がします。

「画家宣言をした当初は、誰も僕をアーティストとして認めてくれませんでした」

画家宣言をした当初は、誰も僕をアーティストとして認めてくれませんでした。美術界では、画家はひとつのスタイルを追求し、それを深めていくのが本来の在り方だとされていたからです。でも僕の場合、100点描いたら100点違うものができてしまうので、そういう意味では画家失格です。だから相当叩かれました。

作風が変わるのは、思想的に変化しているわけではなく、僕自身の生理現象がそのまま表れているからです。性格的に飽きっぽいので、なにかひとつやると、すぐに別のものに目移りする。そうやってどんどん飽きていく多様性が、そのまま僕のスタイルになってしまったんじゃないかな。その繰り返しのなかに暗中模索があるのかなと思っています。