「鞍馬に居られた牛若殿が。千人斬りを…」

しかし、この型が定着する前は、そうでもない。室町時代の文芸や芸能には、べつのパターンでできた例もある。

たとえば、能の演目である『橋弁慶』を、もういちどとりあげたい。この作品は、牛若と弁慶がはじめてむきあう場に、五条橋をえらんでいる。立地の設定では、今日的な構図のさきがけをなしていた。

だが、橋の上で刀剣をうばう男の話はでてこない。弁慶も、そういう悪業には手をそめていなかった。『橋弁慶』で悪役をあてがわれたのは、牛若のほうである。この物語で、毎夜牛若は、五条橋をゆきかう人に斬りかかっていた。無差別殺傷者、いわゆる人斬りという役柄をわりあてられている。

ある日、弁慶は自分の従者から、五条橋についての噂を聞かされる。あの橋には、「十二、三ばかりなる幼き者」が、出没する。「小太刀にて斬つて廻」るらしい。その様子は、「さながら蝶鳥の如」くであるという(『謡曲大観 第四巻』 1931年)。

つづく幕間には、都の男たちがふたりあらわれる。そのやりとりで、五条橋の人斬りを解説するしかけになっている。両者の会話は、こうつづく。なお、語り合うオモとアドは、それぞれ能のシテとその相手役をさしている。

「オモ 五条の橋へ来たれば。女か若衆か見え分かなんだが。十二三ばかりの幼い者が……切つてかゝるによつて……逃げ延びたが、まづあれは何者であらうぞ。

アド 鞍馬に居られた牛若殿が。千人斬りを召さるゝと聞いたが、定めて牛若殿であらう」(同前)

『橋弁慶』で語られる牛若の行動は、なんともおぞましい。「千人斬り」におよんでいる。『義経記』の弁慶は、ただ刀をうばうだけであった。くらべれば、悪漢としても、ひかえ目にうつる。そして、人斬りの牛若は「女か若衆」かが見わけがたい少年として、えがかれた。