愛撫されても男と気づかれなかったのは霊威のおかげ?
『国文学 解釈と鑑賞』という雑誌が、かつてあった。文学研究にたずさわる人たちの月刊誌である。その1961年4月号に、「倭建命」(尾畑喜一郎)という文章が、のっている。
この一文も、ヤマトタケルのクマソ征伐に言及した。『日本書紀』がえがく女装の場面を、読みといている。それが、以下のような解説になっていた。
「紀の伝えでは川上梟師が命に酒を飲ませながら”戯れまさぐつた”とある。それにも拘わらず男性であることを見破られなかったというのも、畢竟するに姨倭比売命の守護霊が完全に発揮されたことを意味する」
クマソの川上タケルは、ヤマトタケルを女だと見あやまり愛撫する。しかし、相手が男であることには、気づけなかった。それは、ヤマトヒメの霊威がヤマトタケルをまもっていたからだと、著者は言う。
『日本書紀』のヤマトタケルは、夜がふけるまで川上タケルからまさぐられた。にもかかわらず、その女装が発覚しなかったのは、どうしてか。この問題へいどんだ研究はないと、前に私は書いている。今、紹介した一文は、例外的にそこへわけいろうとした指摘だと、言えなくもない。
しかし、ヤマトヒメの守護霊をもちだす読解に、私はあきれている。じっさい、『日本書紀』のクマソ遠征譚に、ヤマトヒメはでてこない。こちらのヤマトタケルは、自分で女装用の衣服をととのえている。ヤマトヒメの力はかりていない。『日本書紀』に関するかぎり、斎宮の霊威という話はなりたたないのである。