石川県金沢市、兼六園内の日本武尊像(写真提供:写真AC)

 

英雄は勇ましく猛々しい……ってホンマ? 日本の英雄は、しばしば伝説のなかに美少年として描かれる。ヤマトタケルや牛若丸、女装姿で敵を翻弄する物語を人びとは愛し、語り継いできた。そこに見た日本人の精神性を『京都ぎらい』『美人論』の井上章一さんが解き明かす本連載。第11回は「フェイク・ガールの物語」。

前回●ヤマトタケルの女装譚は神の加護を…

『古事記』のヤマトタケルと『日本書紀』のヤマトタケル

『古事記』のヤマトタケルは、伊勢斎宮のヤマトヒメから、女の衣裳をもらっている。また、それをはおり女になりすまして、クマソの館へ潜入した。クマソの族長をたおすことにも、成功する。

ことをなしとげられた背景には、その衣裳にこめられた霊的な力がある。伊勢神宮、あるいは皇族巫女のあらたかな霊験が、そこには付与されていた。これをまとったヤマトタケルは、その神秘的な霊力でまもられる。クマソ退治を成就することができたのも、そのおかげである。

『古事記』の女装譚は、そういう霊験のありがたさをしめすために、書かれている。宗教的な物語である。以上のように上代文学をあつかう研究者たちは、となえてきた。それが、本居宣長いらいの定説となっている。

しかし、私には納得できないところがある。まず、第一点は『日本書紀』とのちがいである。

ヤマトタケルが女をよそおって、クマソの殺害におよぶ。この話は、『日本書紀』にもおさめられている。だが、こちらのヤマトタケルはクマソ遠征の前に、ヤマトヒメと面会していない。もちろん、ヤマトヒメから女の衣裳をゆずりうけたりもしなかった。

クマソの宴席へもぐりこむ前のヤマトタケルを、『日本書紀』はこうあらわす。「日本武尊、髪を解きて童女(をとめ)の姿と作(な)りて、密に川上梟師(たける)が宴の時を伺ふ」、と(岩波文庫 1994年)。どこで、どう、女物の衣服を入手したのかについては、記述がない。手近なところであつらえたのだとしか思えない書きかたに、なっている。

『古事記』の、ヤマトタケルは、伊勢の斎宮から女の装束をおくられていた。読みよういかんでは、神威や霊験の関与もうかがえる文章になっている。だが、『日本書紀』の女装場面に、そううけとめうる記載は、いっさいない。ここでのヤマトタケルは、ただ「童女の姿」になっただけである。

いったい、なぜか。神威をおびたくて、『古事記』のヤマトタケルは、女装におよんだという。ならば、どうして『日本書紀』の同一人物は、神の加護をもとめなかったのだろう。女装で敵をとりこにし、ほうむりさるだけでことをおえたのは、なぜなのか。この問いに、上代文学の専門家は、だれもこたえない。