うけとるのをためらったのでは

アマテラスの神威うんぬんが語りうるのは、『古事記』にかぎられる。こちらでは、女装用の衣類が、たしかに巫女からヤマトタケルへゆずられた。神の加護をことほぐ物語であったと読みとく余地が、ないわけではない。

だが、『日本書紀』のほうは、美しい女装者が敵をたらしこんで殺す話になっている。フェイク・ガール、じつはボーイが、夜陰にまぎれてテロをなしとげた。ただ、それだけの、宗教とは関係がない話なのである。

この世俗的な物語を、著者は霊的に解釈しようとした。まるで、『古事記』の同じくだりを読みとこうとするかのように。『古事記』に関しては、ヤマトタケルの活躍を霊験譚とみなすのが、定説となっている。それを、『日本書紀』の読解にもあてはめたのだと言うしかない。

ヤマトタケルの女装は、なるべく霊的に読みとこう。女装者としての美しさを強調することは、できるだけひかえたい。今、引用した一文は、学界にそんな気配のただよう現実を、はしなくもしめしている。

『日本書紀』の女装まで、ヤマトヒメの加護をうけたそれとして、うけとめる。『古事記』に関する定説を応用するかのような形で、位置づけてしまう。そういう文章を、『国文学 解釈と鑑賞』は、そのまま収録した。当該部分への修正は、せまらずに。

しかし、どうだろう。この文章が、かりに逆の論法をとっていたら、編集部の対処はどうなっていたか。

『古事記』の読解でひねりだされた霊験説を、『日本書紀』へ援用するのではない。反対に、『日本書紀』の世俗的な筋立てへ、『古事記』の解釈をよりそわせる。『古事記』のクマソ退治をも、女装者のサスペンス・ドラマとして理解する。そんな文章を書いていたら、『国文学 解釈と鑑賞』は、どんな反応をしめしたろうか。

おそらく、うけとるのをためらったような気がする。この部分は、あまりに定説からかけはなれている。表現をあらためてくれないかというようなことも、言いだしたろう。そして、そう批判されかねない文章を、今私はここへ書いている。