なぜ衣服は女物でなければならなかったのか

宣長いらいの定説になじめぬ、二番目の理由を書く。

ヤマトヒメは、神威もこめた女の装束をヤマトタケルにあたえていた。通説は、そうきめつける。ヤマトタケルは、その衣裳ごしにアマテラスの加護をうけた。だから、クマソ征伐もうまくいったという霊験譚を、『古事記』はえがいている。以上のように、論じてきた。

ならば、どうしてその衣服は女物でなければならなかったのか。ヤマトヒメのさずける衣裳には、神威が託されていたという話をくみたてる。『古事記』は、そういう構想のもとに書かれていたと、かりにみとめよう。しかし、そうした場合でも、男の装束に神威を託す手はあったはずである。

たとえば、ヤマトヒメが手編みの男子服をヤマトタケルへ、遠征の餞別にてわたす。もちろん、その服は神威につつまれていた。ヤマトタケルは、どうどうたる戦士として、クマソにたちむかう。そして、アマテラスにまもられつつ、みごとにクマソを撃破した。そんな筋立てでも、かまわなかったはずである。むしろ、こちらのほうが、よりわかりやすい霊験譚になったろう。

クマソ遠征をおえたヤマトタケルは景行天皇から、あらたに東国征討を命じられている。これにしたがい、皇子は東海、関東を平定していった。だが、ヤマトへの凱旋はかなわない。美濃と近江の境にそびえる伊吹山で、命をおとしている。

このいわゆる東征にさきだち、ヤマトタケルは伊勢神宮へたちよった。のみならず、その神宮で、叔母のヤマトヒメとあっている。『古事記』と『日本書紀』のあいだに、その点をめぐるちがいはない。どちらも、征西とはちがい、東征をそういう筋立てにしたてている。また、斎宮のヤマトヒメは、餞贐(はなむけ)の品々をヤマトタケルへさずけていた。