お風呂から上がった父の体には、水滴がいっぱい付いている。湯上りタオルが上手に使えないようなので、風呂上がりの父の背中から足まで拭いてあげた。そして、初めて父の足先をしげしげと見た。爪がかなり伸びている。
「切ってあげようか」
「うん、頼む。手の爪は切れるけど、足は手が届かなくなってしまった」
プライドの高い父が、できないことを口に出すのは、よっぽどのことだ。もっと早く気づいてあげれば良かった。振り返れば、この数年の間にできなくなってしまったことが、いくつもある。
火を使った調理、年賀状書き、銀行振り込み、母の遺影の前に毎朝コーヒーを供えること。「俺は健康だ」という父のマジックに引っ掛かり、衰えてきている姿を私は直視していなかったように思う。いよいよ、正式に要介護認定申請審査を受ける時がきたのだろう。
私の友人の多くは、親の介護の経験がある。みんな異口同音に「介護認定審査では、日頃できないことを、堂々とできるって言うから、わかってもらえなくて困った」と言っていた。父もまったく同じだった。片足立ちを5秒してくださいと言われ、20秒やってのけた。
それだけではない。わざとらしく、パソコンを開いて、ヤフーのトップニュースを読み上げる。私は横で、頭を抱えた。審査の人が驚いた顔をすると、父は胸を張った。
「誰の世話にもなっていないです。全部自分でできます。車も運転しているんです。私のような元気な年寄りは、そういないと思いますよ」
3週間後に届いた要介護認定の結果は、介護度の一番低い「要支援1」だった。
(つづく)
◆本連載は、2024年2月21日に電子書籍・アマゾンPODで刊行されました