知性を潤すような質感のある洒落やユーモアの必要性

私もシングルマザー育ちなので、学校から帰って母から「おかえりなさい」と言葉をかけてもらった経験はほとんどない。

いわゆる鍵っ子というやつだが、寂しさを紛らわすために下校後も外で過ごすことが多かった。当時住んでいたのは北海道だったので春と夏の間に限るが、木々も草花も生物たちもみな賑やかで、誰もいない家にいるよりずっと安堵できたからだ。

「お母さんが家にいなくて寂しいでしょう」とこちらの特殊事情に干渉するように声をかけてくるご近所の人がいれば、懸命に働く母を慮って「ちっとも!」と強がった。

寂しさが増せば増すほど明るく楽しい雰囲気を生み出そうと戯けたり、周りを爆笑させるような絵を描いた。そして何より、私の周りにはそうした笑いへのアプローチを受け止めてくれる友人たちがいた。あの頃は、私とはまた違った面倒な境遇の家庭に育った子どもたちが周りに少なくなかったから、みんな友達といる時くらいは、天真爛漫に大笑いをしていたかった。

考えてみれば終戦直後にコメディ映画やギャグ漫画が多く生み出されたのも、戦争という不条理で被った巨大な喪失感とダメージから回復しようとする表現者たちの意欲の顕れだった。社会全体が悲しみを吹き飛ばすような粋な洒落と機知に富んだ笑いを求めていた。

でも今は違う。先日も、とある年配の友人と「最近は粋な洒落やユーモアと接することがめっきりなくなってしまった」という話を交わしたばかりだ。

言論を含む表現の自由が狭められていくような現在の風潮に抗うことをせず、不条理や孤独感を回避して生きる人が増えれば、心に空いた穴を満たし、知性を潤すような質感のある「洒落」や「ユーモア」の必要性はなくなっていくだろう。

私たちの時代であれば受け入れられたであろうフィリピンの少女のあの明るさは、昨今の子どもたちにとっては共感するどころか疎ましいだけかもしれない。それを平和の兆しと受け止めるべきなのか、または危惧ととらえるべきなのか。何はともあれ時代は刻々と移り変わっている。