女装譚をあらわし草薙剣から目をそむける通史の読み物は存在しない
鎌倉時代の『倭姫命世記』は、前にも紹介した。伊勢神宮の神道書である。その神祗観を、歴史叙述のなかでくりひろげたところに、特徴がある。すでにのべたが、この読み物は西征を黙殺した。東征だけをとりあげている。
また、『倭姫命世記』は東征につかわれた草薙剣を特筆した。その霊験を強調する度合いは、『古語拾遺』より、よほど強くなっている。そして、このころから草薙剣じたいを神々しくえがく文献が、ふえていく。思想史家の磯前順一が、その趨勢と天皇制のかかわりを論じている(『記紀神話のメタヒストリー』1998年)。
いっぽう、鎌倉時代以後に、西征への記述がふくらむきざしはない。東征と草薙剣は、脚光をあびるようになった。なのに、歴史語りのなかで、西征の叙述がふくらまされていく兆候は、うかがえない。草薙剣とくらべれば、ヤマトタケルの女装譚は、日陰者でありつづけることとなる。
江戸幕府が『本朝通鑑』(1670年)という歴史書を編纂させたことは、すでにのべた。源義経=牛若は出っ歯だったときめつけた史籍であることも、紹介ずみである。その『本朝通鑑』も、やはり西征より東征を大きくとりあげた。ヤマトタケルの女装については、言及がない。
水戸藩がてがけた『大日本史』も、あつかいは同じである。記述のウエイトは、まちがいなく東征においている。やはり、義経の出っ歯説に加担した史書だが、女装の話は歯牙にもかけなかった。
すべての歴史家が、東征のほうを重んじたとは言わない。たとえば、新井白石の『読史余論』(1712年)は、東西の両遠征を互角にとりあげた。なるほど、白石は西征の女装作戦を論じていない。しかし、同時に東征でつかわれた草薙剣への言及も、ひかえている。あつかいはイーブンであったと言うしかない。
だが、多くの歴史叙述は東征に重きをおいてきた。西征のほうが、より強調された史書は、ほとんどない。女装譚をあらわして、草薙剣から目をそむける通史の読み物は、存在しないと思う。その逆は、けっこうありうるが。