けっきょく、研究者の多くは女装より宗教を語りたがる
漢文になじんだ学者は、女装の意味を問いたださない。まず、けがらわしいと感じてしまう。なぜ、女になりすます作戦がえらばれたのか。ヤマトであつらえた女服が、クマソの宴席で悪めだちしてしまうことはなかったのか。とまあ、そういったことを考える心のゆとりは、誰もいだけなかった。
国学者の本居宣長は、『古事記伝』でヤマトタケルの女装を読みといている。皇子はヤマトヒメから、女物の衣裳をゆずられた。そこには、伊勢神宮がまつってきた神や斎宮の威光がとどいている。皇子はその神威にまもられ、敵のリーダーをうちはたした。『古事記』のクマソ遠征は、そういう話になっている、と。
私はこの読解を、うけつけない。しかし、ヤマトタケル伝説の解釈史において、画期的な指摘であったとは、思っている。これより前に、女装の謎へせまろうとした人は、いなかったのだから。
皇子が女になりすました話など、わざわざとりあげるまでもない。見すごしておけば、それですむ。そういう漢心から、宣長はときはなたれていたと言うべきか。
ただし、その宣長も、女装譚そのもののおもしろさからは目をそむけた。ヤマトタケルは、どう化けおおせたのだろう。その女っぷりは、いかがであったのか。往古の人びとがそこに興じたろう可能性は、見ようとしていない。
宣長はヤマトタケルの女装を、宗教的にのみ、とらえようとしている。神学にかたよった把握を、こころみた。そこに私は、学者くさい限界を感じる。スコラ的なさかしらにとらわれた構えを、見てしまう。これもまた、形をかえた漢心ではなかったか。
とはいえ、宣長説で女装の場面が講壇的な学問の枠におさまったことは、いなめない。宣長はこの問題を学術の俎上にのせやすくする、その糸口をこしらえた。宣長説をよりどころとすれば、女装そのものは論じなくてもすむようになる。ヤマトの神観念だけを問うことができる。その土台を用意した。女装から目をそむけたい漢心の学者へ、議論に参入しうる手がかりをあたえたのである。
おそらく、その安心感もあずかってのことだろう。宣長の見解は、今の研究者からも高く評価されている。ながらく、定説だとされてきた。卓見であったとほめる声も、耳にする。けっきょく、研究者の多くは、女装より宗教を語りたがるということか。