女装の話は通史の叙述からはぶかれることが一般化した

『古語拾遺』をはじめ、多くの歴史書は漢文で書かれている。書き手は、みな中国的な教養を身につけた男たちであった。

女装のだましうちで敵をほろぼすヤマトタケルが、日本では国民的な英雄になっている。そのことが中国人留学生からは、いちようにおどろかれると、前に書いた。敵をたおすため、女装という作戦にうってでる。そんな男の、どこが英雄的なのか。ずるくて、いやらしいだけじゃないか。彼らは、そう否定的にヤマトタケルの振舞いを、とらえやすい。

この中国的な考え方を、日本でも歴史書の著者や編者は、古くから共有していたのだろう。少なくとも、漢文で歴史をつづるような人たちは、わかちあっていたのだと考える。

ただ、8世紀初頭の日本には、まだこの観念がとどいていなかった。じじつ、記紀はヤマトタケルの女装を、どうどうと書いている。

だが、9世紀のはじめごろには、状況がかわりだす。『古語拾遺』などの書きぶりを、ふりかえってほしい。女装の話は、隠蔽されるようになっている。

編者たちも、考えたのではないか。なるほど、記紀には、景行の皇子が女をよそおい、敵をあやめたと書いてある。景行の時代には、そういうことがあったのかもしれない。しかし、こんな話は、わざわざ公開しなくてもいいだろう。記載はつつしんだほうがいい、と。平安時代には、女装をいとう漢心(からごころ)がひろがりはじめたということか。

これ以後、ヤマトタケルの女装伝説は、歴史の表舞台からしりぞくようになる。通史の叙述からははぶかれることが、一般化していった。