逡巡が「奇謀」という言葉をえらばせた
『神皇正統記』(1339年)という歴史書がある。南北朝時代に南朝をささえた北畠親房が、書きあげた。のちに、南朝正統説をはぐくんた文献のひとつとして、よく知られる。
北畠もヤマトタケルの遠征に関する叙述では、東征のほうに力をこめていた。草薙剣についても、その神威をうやうやしくのべている。そこに、西征を語る部分がないわけではない。かんたんな説明を、ほどこしてはいる。
ただ、女装という手段がとられたことは、かくしていた。クマソの族長へは「奇謀ヲモテ」あたり、「殺給(ころしたまふ)」と書くにとどめている(『日本古典文学大系 87』1965年)。トリッキーな計略で、殺害したというのである。
うたがいようもなく、北畠はヤマトタケルの女装作戦を知っていた。女になりすまして敵をおとしいれたことは、了解していたはずである。だが、クマソの族長に女装でむきあったとは、書いていない。「奇謀」という表現で、女装の話をあいまいにしている。
この文面からは、北畠のためらいが見てとれる。景行天皇の皇子を、女スパイ風の女装者としては書きたくない。そう書いてしまえば、尊皇精神をうらぎることになる。クマソ征伐の戦術は、オブラートにつつんでおこう。以上のような逡巡が、「奇謀」という言葉をえらばせたのだと考える。
通史をしるした読み物は、西征より東征に光をあてやすくなる。クマソの族長へしかけた女装という手立てからは、目をそむけてきた。こういう傾向の背後には、北畠の配慮ともつうじあう価値観があったろう。女装の話は、淫靡な印象を読者にあたえかねない。書くのははばかる。表へださないほうがいいという気づかいは、ほかの歴史家もいだいていたにちがいない。
もちろん、草薙剣を重視する時代の勢いも、東征叙述のウエイトを強めたろう。西征はその趨勢下に、後景へしりぞきやすくなったのかもしれない。だが、私はそれとともに、女装の話が忌避されたことだって、あなどれないと考える。