「日本武尊図」。「田米知佳画集」(便利堂)より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション
英雄は勇ましく猛々しい……ってホンマ? 日本の英雄は、しばしば伝説のなかに美少年として描かれる。ヤマトタケルや牛若丸、女装姿で敵を翻弄する物語を人びとは愛し、語り継いできた。そこに見た日本人の精神性を『京都ぎらい』『美人論』の井上章一さんが解き明かす本連載。第14回は「女装にためらう学究たち」。

前回●『古事記』がヤマトタケルのクマソ征伐譚に…

『古事記』や『日本書紀』以降の歴史書はヤマトタケルをどう扱ったか

『古事記』や『日本書紀』は、8世紀のはじめごろにまとめられた。今日までつたわる、日本で最初の歴史書である。ヤマトタケルの話は、それらが景行天皇の記録をのべたところに、収録されている。

ヤマトタケルは景行の皇子であった。父から命じられ、二回にわたる遠征を余儀なくされている。ひとつは、九州までおもむいた西征であり、いまひとつは関東までおよんだ東征である。そのどちらについても、記紀はくわしくのべている。クマソの族長を女装の詐術でたおした話にも、西征のほうだが、多くの言葉をついやした。

だが、のちの歴史書は皇子の西征を、あまり大きくとりあげない。とりわけ、女装に関しては、言及をさける傾向がある。

ためしに、『古語拾遺』という史書を、ひもといてみよう。斎部広成(いんべのひろなり)という朝廷祭祀をてがける廷臣が、807年にまとめあげた。同じ立場にあった中臣(なかとみ)氏とはりあうべく、これを編纂したのだと言われている。

そこに、東征の話はある。景行が「日本武命をして東の夷を征討たし」めたと、記載されている(岩波文庫 1985年)。しかし、西征については、ひとことも書かれていない。対クマソ戦略で女装にふみきった話も、はぶかれている。

『先代旧事本紀』は、おそくとも平安時代のはじめごろまでにととのえられた。神代から推古天皇までの事績をならべた、これも歴史書である。物部氏についての記述が多く、同氏とのかかわりで注目をあつめてきた。

この本には、西征への言及がある。ただし、そのあつかいは、いたって小さい。景行が「日本武尊」をつかわし、クマソをおそわせた時、皇子は「十六歳」だった(『新訂増補国史大系 第七巻』 1966年)。ただ、そのことだけを書いている。女装の話には、いっさいふれていない。

とはいえ、この本は東征のことも限定的にしか、とりあげなかった。西征だけを軽んじたわけではない。ヤマトタケルの遠征総体を、小さくあつかっている。