視野を庶民いっぱんへひろげてみれば
前に英雄時代論争の話をした。1940年代末から50年代のなかばまでつづいたやりとりを、とりあげたことがある。ヤマトタケルの英雄性も、論点のひとつとなった論争を。
そのさいもふれたが、もういちど書く。論争でヤマトタケルの英雄性を否定した者は、けっこういた。だが、だれも彼の女装歴をネガティブな評価の理由には、あげていない。女になりすます英雄なんてありえないだろうという声は、ひとつもおこらなかった。
このことから、私はある判定をくだしている。日本の学界は、女装のだましうちを英雄像にふさわしくないと、みなさない。それだけ、女装には好意的だったのだ、と。だが、そうきめつける前に、あとひとつ言葉をおぎなうべきであったろう。
日本の研究者たちは、女装の背後、あるいは深層に、神の加護を読んでいた。だから、彼らはヤマトタケルの振舞いを、純粋な女装者のそれとしてうけとらない。神威をまとった勇者の行動として理解する。英雄としての資質をそこなう要素だと感じなかったのは、そのためでもある。このことを、私は書きそびれた。言葉たらずであったと思う。
英雄時代論争の時期に、藤間生大はヤマトタケルの傑出性をうたいあげた。と同時に、ヤマトヒメからもらった衣服の聖性も、力強く語っている。これをまとったからこそ、ヤマトタケルは「神のまもりを心に信じ」られたのだ、と(『日本武尊』1953年)。
ヤマトタケルの、トランスジェンダー的な側面には、興味をそそがない。サイキックパワーが身についた戦士像を、もっぱらおしだそうとする。この読みかえをとおして、藤間は心おきなく、その英雄性を語りえた。宣長は、ヤマトタケルの女装にたいする評価を、それだけ大きくかえたのである。
とはいえ、私がここでくりひろげたのは、あくまでも学者たちの話である。おりめただしく、日本の歴史をあらわそうとする。そういう立場の人たちが、どうヤマトタケルをあつかってきたか。そこへ焦点をしぼり、議論をすすめてきた。
視野を庶民いっぱんへひろげると、こういう筋立てではおさまりがつかなくなる。ヤマトタケルもふくむ日本女装史は、まったくことなる相貌のもとに浮上する。次回からは、その広大な領野へのりだすつもりである。