お悩みその1 ものを見ても何も感じない

「『Q.ものをじっと見ていても、何も感じません』『A.感じたことを五七五にすればいいのです』などと入門書のQ&Aにあると、相談者に思いっきり共感し、回答には、それがいちばん難しいのに! と怒りすらおぼえます。鈍感な私は俳句に向かないのでしょうか」

まさに「あるある」。俳句で最初に言われるのが、ものをよく見よう。感じたことを五七五にしよう。とっつきやすくするため言ってくれるのだろうけれど、初心者にとってこれほど難しいことはない。

俳句には吟行という作り方がある。どこかへ行って、そこにあったものを詠む。吟行にはじめて参加したとき、先生に言われたのも、さきのふたつ。行った先は菖蒲田だ。

俳句歴の長い人からは「私は一本の草の芽の前に50分しゃがみ込んでいたことがある」と聞き、50分は無理でもせめて15分は粘ろうと思い、一本の白いつぼみの前に陣取った。

待てど暮らせど何もわいて来ない。見てはいる。凝視といっていいほど目を凝らし続けている。が、見ても何も感じない。

頭の中をめぐる言葉は「菖蒲」「白」「3枚の萼(がく)?」「つぼみ」「ねじれ」「右巻き」「いや、左巻き」……およそ即物的であり、心はいっこうに動かない。

「待てど暮らせど何もわいて来ない。見てはいる。凝視といっていいほど目を凝らし続けている。が、見ても何も感じない」(写真提供:写真AC)

私はものを感じないタイプなのか。詩心という俳句に必要な資質に欠けているのではと、相当落ち込んだ。

吟行のあとの句会には、決まった数の句を提出しないといけないので、3枚とか左巻きとか書いたが、言うまでもなく誰にも顧みられなかった。

とにかくもういちどと次の回の吟行にも参加し、回を重ねるうちに気づいた。見るだけでなく、手にとってどうこう、鼻を近づけてどうこう、という句が結構ある。

何も見るばっかりではない、触って何か、嗅いで何かを感じないか。毒でなければかんでみるのもアリだろう。押してダメなら引いてみろ、というと荒っぽいが、その精神だ。

そして悟った。見ることは俳句の基本ではあろうけど、「見て何かを感じなければ」と焦れば焦るほど、心が金縛りに遭ったようになってしまう。見るだけにこだわらず、何らかのアクションを起こそう。それがきっかけで心が動き出すこともあると。