季語のおかげで自由になれる

住んでいるのは集合住宅、周りじゅう舗装されている。田畑や野山はおろか土すらも公園や人の家の庭以外にない。歳時記に載っている季語の大半は生まれてこの方見たこともなく、俳句には向かない環境と思っていた。

が、ニュースが「啓蟄(けいちつ)」を告げる頃には、どこからともなくひきがえるが舗装道路にはい出てきている。

毎年毎年判で捺したように同じ頃。「自然のリズムってすごい」と畏敬の念を抱くとともに、都市生活でも季節は感じられるから俳句には不利とか無理とか尻込みする必要はない、と思い直すのだ。

季語という決まりそのものを不自由と感じる人もいよう。

私も最初は、「障子」のように一年じゅうあるものまで季語だなんて、やりにくいと感じた。今はやりにくいどころか、季語に定めておいてくれて助かった! という感じ。

句の中に「障子」と置くだけで、外の寒さから隔てられた落ち着きや、冬の座敷にいるしんとした心持ちを、読む人がイメージしてくれる。その部分は共有されているという安心感に依拠して、残りの部分をのびのびと作ることができる。季語のおかげで自由になれる。

「(季語によって)共有されているという安心感に依拠して、残りの部分をのびのびと作ることができる。季語のおかげで自由になれる」(写真提供:講談社)

「俳句がたった十七音で大きな世界を詠むことができるのは、背後にある日本文化全般が季語という装置によって呼び起こされるからである」。

私の使っている歳時記の序にあるこの文章を私は何度かみしめたことか。この本でもくり返し引用するかと思う。この便利でありがたい「装置」を最大限頼りにしている。