過ぎゆく時を深く味わう

歳時記で例句にふれる。この人はどんな句を作るのだろうと他の本も読む。そうしていつの間にか覚えた句が、暮らしの中でときどき浮かぶ。

夏の夜、家へ帰る途中の商店街。昼間より蒸し暑さがやわらいで、食べ物を売る店も中で食べさせる店も戸口を開け放ち、風を通している。エスニック料理の香辛料やすえたような魚の匂いが、人声と混じり合い漂ってくる。

市中(いちなか)はもののにほひや夏の月  野沢凡兆(ぼんちょう)

そう、ものを売ったり食べたりする人の営みが、ここにはある。そう思うと、通りの匂いやざわめき、温度、湿度までいとおしくなる。日常のありふれた一シーンを、俳句を媒介として、より深く味わっている。

旅先でも同じこと。吟行のような俳句を作るための旅でなくても。秋の午後、仕事で新幹線に乗っていた。目を上げると、窓の外には山々が。そこへ早くも傾きかけた日が当たっている。

われら去るあとに日当る秋の山 桂信子

思いがけぬ穴を覗いてしまったような怖れ、寂しさ。こんなふうに忙しくしている自分も、自分の知る誰かれも、いずれ必ずこの世を去る。同時に穴の底にうっすら光も見えるようだ。

今生きている人全員がいなくなったあとでも、山々は今と同じく秋の日に美しく照り輝いているに違いない。移動中の何でもないはずの風景が、俳句を通し、しみじみしたものになる。

私は時間に対し欲張りな質で、したいこと、しなければならないことで時間を埋めていくことが充実であり、有意義な生と思っていた。

でもそんなふうに詰め込むだけが豊かな時間をすごすことではないと、俳句をはじめて感じるようになった。前はもったいなくて仕方なかった隙間時間が、今は苦でない。