第1回全国編み物コンクールの受賞記念写真。左から19歳の伊藤さん(最優秀賞)、主催・講談社の野間省一社長、高松宮妃、伊藤さんの母、その他受賞者(写真提供◎伊藤さん)

憧れの先生と出会い世界が変わった

その雑誌を貪るように読んでいる私を見て、母も何か感じるものがあったのでしょう。私に内緒で出版社に電話をし、イルゼ先生に会わせてほしいとお願いしたのです。

当時、東京はまだ戦争からの復興途上。終戦の翌年にヨーロッパから日本に帰られたイルゼ先生は、ご主人の親戚を頼って、御茶ノ水の病院の一室に暮らしていました。そこで初めてお会いした日のことは、今も鮮明に覚えています。高校生の私にとっては、世界が変わる出会いでした。

私が通っていた都立駒場高校は自主自立の校風で、必要な単位さえ取ればあとは自由。午後は一目散にイルゼ先生のもとに馳せ参じ、日本語が覚束ない先生に代わって記者の取材に対応したり、スケジュール調整したり。私は高校生ながら私設秘書、スポークスマン気取りでした。

私自身の創作活動の礎はご夫婦から授かったものです。イルゼ先生からはヨーロッパの編み物の技法を学び、東京大学文学部で美学の教授だったご主人(渡辺護氏)からは色彩学の基本を教わりました。同時に、あの時代に国際結婚を貫いて、未知の国にいらした先生の生き方も学んだように思います。

先生と片時も離れたくなくて、ご自宅を構えた葉山に帰る先生とご一緒に東京駅から横須賀線に乗り込んで、品川までお供したものです。私は渋谷に帰るので、だいぶ遠回りして。その二人きりの10分か15分が至福の時でした。

高校を卒業した頃、その電車の中で先生から「全国編み物コンクールに応募してみたら」と勧められました。これが私の人生の転機。

でも、その時点で締め切りまで10日しかなかったの! 10日で何ができるか必死に考えて、黒、白、グレーの3色で、フレンチスリーブのセーターを編み上げました(下写真)。たまたま直前にモノクロームの写真展を見に行っていたので、その世界観が私の中に残っていたのかも。

伊藤さんが最優秀賞・高松宮妃賞を受賞した、第1回全国編物コンクールの出品作(1953年)(『伊藤浩子作品集』より/撮影:児玉晴希)

まず地区予選の東京大会で最終10作品に残った時は嬉しかったですね。その後、1年かけて本選の全国大会に進み、「最優秀賞・高松宮妃賞」を最年少の19歳で受賞した時は驚きました。

本選に出品された作品は、どれも色とりどりの大作ぞろいで、それに比べると私の作品はあまりにも小さくて地味。でもむしろそれがよかったのかもしれませんが。