ヤマトタケルの女装譚の影響
つぎに、『本朝水滸伝』という読本を紹介しておこう。奈良時代を舞台とする、空想的な歴史物語である。18世紀後半に建部綾足(たけべあやたり)が、書きすすめていった。その前編は1773年に刊行されている。後編は写本の形でつづけられたが、未完のまま終了した。
その後編、第二四条に、キビノタケシカがあらわれる。「吉備の武彦(キビノタケヒコ)が曽孫(ヒヒマゴ)」として、作者はこの人物を登場させた(『建部綾足全集 第四巻』 1986年)。
キビノタケシカは妹を「文石(アヤシ)の倭蜘」という悪党にさらわれている。彼女のゆくえをさぐっていた兄は、この悪党が新築のいわいをすると聞きおよぶ。なんとか、その祝宴にもぐりこもうとするが、なかなかはたせない。彼らが宴席には、女しかまねきいれようとしなかったからである。
だが、悪党の館へむかっていく女芸人の集団とであい、妙案を思いつく。自分の「すがたを女にかへて」、いっしょに潜入しよう、と(同前)。そして、芸人一同にこのもくろみをつたえ、同行をたのみこむ。その申し出を、彼女らもうけいれた。
館の門番も、女をよそおったキビノタケシカまでふくめ、入館させている。しかし、その前に軽い身体検査をこころみた。その理由が、こう書きあらわされている。
「武鹿(タケシカ)が面(オモテ)を作るに、もとよりきらくしき若人なりしかば、面ざしのめゝしくなるを(中略)さるにても能曽多気留(クマソタケル)がためしもあればと、懐(フトコロ)をさぐるに」(同前)。
キビノタケシカは美しい男であった。女にも、たやすくなりおおせている。だが、門番は不安もいだく。クマソタケルのような例もあるから、懐剣の有無をしらべるという。ここには、ヤマトタケルの女装譚がひびいている。
作者は、このくだりにことごとしい説明をそえていない。いきなり、クマソタケルの名をもちだしている。ここは、ヤマトタケルの女装譚を素材とするくすぐりになっていた。もちろん、当時の読者が、みなすぐそう了解したわけではないだろう。しかし、書き手はそこがわかる読み手との知的な交信を、ひそかに期待していたと思う。
女装の役割を、キビノタケヒコの「曽孫」にあたえていた点も、興味深い。『あつた大明神の御本地』が、東征譚から西征譚にもひきぬいた。そんな人物の「曽孫」を、女装の当事者にしたてている。建部綾足も、浄瑠璃いらいのキビノタケヒコに関する伝統を、意識していたろう。