本居宣長は新しい潮流をうとましく思っていただろうか

室町期から江戸期にかけて、ヤマトタケル像は、大きく変容する。かつては、草薙剣のつかい手として、もっぱら認識されていた。しかし、17世紀後半には、女装の英雄としてもみとめられるようになっていく。民衆の想像力は、時代が下るにしたがい、そちらのほうへ傾斜していった。

『万句合(まんくあわせ)』という幕末の川柳集に、おもしろい一句がおさめられている。「女形その始まりは日本武」というのが、それである(『日本古典文庫 三〇七冊』 1972年)。歌舞伎では、女形とよばれる男たちが、女の役を演じてきた。その歴史的な起源はヤマトタケルにさかのぼると、この句は言っている。

もちろん、冗談である。だが、こういう物言いがでまわるぐらいに、ヤマトタケル像は変容をとげていた。江戸中期には、女装者のパイオニアだとする認識も、でまわっていたのである。

本居宣長の旧宅。三重県松阪市殿町(写真提供:写真AC)

本居宣長がヤマトタケルの女装に新しい解釈をそえたのは、18世紀後半であった。ヤマトタケルは、ただ女になりすましたわけじゃない。あの女服には、宗教的な意味がこめられていた。ヤマトヒメやアマテラスオオミカミの霊力をしめす。そのために、『古事記』は、あの逸話をおさめたのだ、と。

ちょうど、民衆が女装者としてのヤマトタケルを、はやしたてていったころである。学者である宣長は、この新しい潮流をうとましく思っていただろうか。女装譚をおもしろがる浄瑠璃の愛好家たちに、釘をさす。そんな想いもあって、あのおごそかな読解はもちだされたのかもしれない。

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