その葛藤は、じゅうぶんレズビアン的であった

前にもふれたが、ヤマト側の女装作戦は、西国側へもれていた。第一皇子のオオウスが、カシキヤヒメは男だと、事前に西国へつたえていたからである。ヤマトから現地へおもむいた面々も、作戦のばれていることに気がついた。そのため、おおいそぎでヤソタケルへの対策を、あらためている。

彼らは、腰元のシキタエを、カシキヤヒメとすりかえることにした。シキタエは、女である。ヤソタケルから男だとうたがわれても、正真正銘の女だときりかえせる。ひとまずは、このシキタエこそが花嫁なんだと、言いくるめよう。そして、そのまま新枕の部屋へさしだせば、なんとかなる。そうもくろんだ。

事情を聞いたシキタエは、しかしなかなかこの案にしたがおうとしない。この時、彼女は自分のほれている皇女が、男であることに気づいている。だから、まずはその恋しい男、皇女ならぬ皇子と肌をあわせたい。ヤソタケルとの同衾は、ひきうける。だが、それは皇子と寝たあとにしてくれないかというのである。

この申し出は、一同にもうけいれられた。シキタエは、好きでたまらなかった人と情をかわすことが、できている。その後、シキタエはヤソタケルとむかえた初夜のおりに、相手から首をはねられた。だが、とにかくほれぬいた男と体をまじえることは、できたのである。

とはいえ、これを恋愛、異性愛の成就する物語とみなすことは、むずかしい。なんと言っても、シキタエは恋しいカシキヤヒメを、同性だと思いこんでいた。女である自分が、女を愛している。最初はそのことにとまどい、うろたえてもいたのである。

日本の古典文学に、女性の同性愛、レズビアンをあつかったものは、ほとんどない。鎌倉時代の『我が身にたどる姫君』は、その例外として語られることがある。たしかに、この物語は女どうしの同衾をえがいている。それをのぞく男の様子も、しるしていた。

しかし、この古典は、女を愛する女の内面にせまっていない。描写されているのは、脇からうかがった男の観察だけである。いっぽう、近松の筆は当事者の心理にもおよんでいた。「女が女に惚れるとは(中略)儘にならぬ此心め」。そう自問する女を、えがいている。

もちろん、近松の話でも、けっきょくは男女が想いをとげていた。純粋なレズビアンの物語だとは、言いがたい。

しかし、最初シキタエは、カシキヤヒメを女だと信じきっていた。同性を好きになったと思いこみつつ、自らの恋になやんでいる。その葛藤は、じゅうぶんレズビアン的であったと考える。

日本文芸史上において、同性愛でためらう女の心情は、この時はじめて表現された。それは、近松によってもたらされたのだと、みなしたい。ついでに、その初出はヤマトタケルの物語だったことも、のべておく。

あるいは、こうも言えようか。女が好きだという女の心模様を、日本文芸史は、なかなか表現するまでにいたらない。ようやく、18世紀に女装男子へのそれとして、あらわした。女と女がひかれあう心理劇をえがく。その前に、いつわりの女へ女の思慕がむかう段階を、とおったのだ、と。