江戸中期の『須磨都源平躑躅』はとうとう平敦盛に女装をさせた
近松の『日本武尊吾妻鑑』は1720年に、大阪の竹本座で演じられている。その10年後、1730年のことであった。同じ竹本座で、『須磨都源平躑躅(つつじ)』という浄瑠璃が、舞台にかけられている。このふたつが、今のべた女性の同性愛という点で、つうじあう。
『須磨都源平躑躅』は文耕堂と長谷川千四(せんし)の合作により、なりたった。こちらは歌舞伎としても、『源平魁躑躅』の名で上演されることがある。歌舞伎の愛好家には、『扇屋熊谷(くまがい)』の通称でも知られていよう。
話じたいは、源平合戦の時代をあつかっている。『平家物語』の「敦盛最期」(巻九)を題材とした浄瑠璃である。
一の谷を舞台とする合戦で、平家は敗北した。再起をはかる敗軍は、船で瀬戸内海の沖へにげのびる。その船へ、おくればせながら平敦盛も、平清盛の甥だが、馬にまたがりおいつこうとした。この敦盛を、源氏方の熊谷直実が、浜辺からよびとめる。敵にうしろを見せるのか、ひきかえせ、と。
まだ若く、血気さかんな敦盛は、この挑発が聞きながせない。声の主である直実のほうをふりむき、そちらへもどっている。そして、ふたりは海岸でくみあった。力がおとる敦盛は、馬からおとされている。その首をはねようとした直実は、相手の甲をはがし、おどろいた。
なんと美しい人であることか。まだ、若く、自分の息子と、年はほとんどかわらない。こんな美少年を、あやめなければならないのか。最終的には、斬首へふみきる直実だが、ひとときそうとまどう。そのまよいを、『平家物語』は感傷的にえがいている。
この名場面を、後の幸若舞や能楽、そして御伽草子は反復した。さまざまな翻案をこころみている。敦盛の名は、そのため後世からも語りつがれるようになる。敵の男をも魅了した美少年として。そんな敦盛に、とうとう江戸中期の『須磨都源平躑躅』は、女装をさせた。
一の谷で、合戦がはじまる前のことである。都をおわれた平家の敦盛は、しかしまいもどり、若狭という扇をあきなう店に、もぐりこむ。女をよそおい、折子(おりこ)の小萩となって店にやとわれた。女装をして、都にとどまりつづけたのである。
扇屋若狭の主人には、桂子という娘がいた。彼女は、もともと敦盛にあこがれている。その面影がしのべる折子の小萩へも、恋心をいだくようになった。小萩が男だとは、もちろん淳盛当人だとも気づかずに。店の従業員たちにも、桂子はたのんでいる。両親には知られぬよう、小萩と一夜をすごしたい。なんとか、手立てをはかってくれないか、と。
ここに、店の折子へ心をよせる娘のモノローグを、ひいておく。「ほんぼんにあられもない女が女に惚れるとは、事欠いた如く嗜んでも此心が儘ならぬ」(『日本名著全集 第一期 江戸文芸之部 第六巻』 1927年)。
女が女にほれるとは、どうしたことか。ほんとうに、ありえない。自分ではつつしもうとするのだけれども、この心がおさえられなくなっている。以上のような苦悩を、桂子はかかえていた。
この独白は、『日本武尊吾妻鑑』でシキタエがしめしたそれと、かさなりあう。どちらも、この恋を「あられぬ」「あられもない」と、とらえている。つまり、ありえない、と。両者がもてあます感情も、同じ文句、「女が女に惚れるとは」でしめされた。自制心のきかない様子も、かわらぬ言いまわしになっている。「儘にならぬ此心」「此心が儘ならぬ」、と。