ヤマトタケルの女装は「戦時女装」といえるか
最初に言いだしたのは、歴史家の米沢康であった。その論旨は、こうまとめられている。「物語りの女装という要素」は、「花郎」に「類比さるべき、古代的意義」をもつのだ、と(「ヤマトタケルノ命の物語 その歴史的基底について」1956年 『日本古代の神話と歴史』1992年)。
花郎に言及した米沢は、もっぱら三品説によりかかっている。彼らの女装を否定的にとらえた池内説は、見すごした。自分の議論に都合がいい説へ、依存をしたということか。
ヤマトタケルの女装譚は、新羅の花郎とひびきあう。この読み解きは、21世紀にはいっても、生きのびた。「戦時にあたって女装をする」。この考え方を、ヤマトタケルの伝説は新羅の花郎とわかちあう。以上のように、及川智早も論じている(「女装する英雄 日本武尊 ふたつのヤマトタケル物語」、『歴史読本 人物往来』2007年12月号)。
『古事記』の女装譚をめぐっては、本居宣長いらいの定説的な読解がある。ヤマトタケルは女装により、伊勢神宮の霊的な恩恵をうけた。あるいは、ヤマトヒメやアマテラスオオミカミの加護を、とりつけている。女装の物語は、その神秘的な力をしめす霊験譚であるという。多くの註釈書が、今なおこれを踏襲する。
しかし、これまでに、霊験譚説以外の解釈がなかったわけではない。宣長説とはちがう読みを提示した者も、少なからずいた。新羅花郎との通底ぶりを強調する戦時女装説も、そのひとつにあげられる。
なんと言っても、宣長的な見方は、『古事記』の女装譚にしかあてはまらない。『日本書紀』の記述とは、はなからそりがあわないのである。
『日本書紀』のヤマトタケルは、自分の力で女装用の衣裳を調達した。ヤマトヒメから、衣服をもらったわけではない。アマテラスらの加護も、『日本書紀』のヤマトタケルには、とどかなかった。『古事記』の場合とちがい、その女装には神威とかかわる可能性が、読みとれない。記述ぶりを見るかぎり、いたって世俗的な女装になっている。
新羅花郎との呼応説は、そんな『日本書紀』の女装譚ともおりあいがつく。アマテラスらとは無縁な話であっても、合理化することができる。『古事記』の説明にしかいかせないような説明ではない。
それに、この論法を援用すれば、興味本位と思われかねない読みがさけられる。かつての日本は、朝鮮と戦時女装の文化を共有しあっていた。それが日本ではヤマトタケルの伝説を生み、新羅に花郎をもたらしている。そう論じれば、女装の話に興じる通俗性から、いくらかは距離をとることができる。
じじつ、新羅花郎との共振を言いたてた論客は、たいていそのことを力説した。たとえば、さきほど紹介した及川の文章にもこんな指摘がある。
「戦時にあたって女装をするというモティフが存在しており、ヤマトタケルの女装には、これまでいわれてきたような単なるだまし討ちのための女装だけではない思想・背景を有している」(同前)。
最初に花郎との共通点を論じた米沢も、同じことを書いていた。ヤマトタケルに女装のシーンがあたえられたのも、「物語的興味のため」ではない。そこには、新羅ともつうじあう「古代的意義」があるのだ、と(前掲『日本古代の神話と歴史』)。