花郎と呼ばれた美少年たち
かつて、朝鮮半島に新羅という国があった。4世紀のなかばから、国としての姿をその東南部にあらわしている。7世紀の後半には、半島の全域を支配した。高麗という新しい勢力にほろぼされたのは、10世紀をむかえてからである。
その新羅に、花郎とよばれる人たちがいた。軍を鼓舞する美少年たちである。みな10歳台なかばの男子で、貴族の子弟からえらばれた。当時の軍制は、この花郎をいただく軍団群で、構成されている。さらに、各軍団は、彼らが奉戴する美少年の名で、「**の徒」と称された。
花郎が戦士たちをふるいたたせる力は、6、7世紀にピークをむかえている。半島統一後は、その凝集力を弱め、形骸化していった。
当初は、ふたりの美女が、その役目をになったらしい。しかし、彼女らをめぐり、軍ではいさかいがおこっている。そのため、とちゅうで、着かざった美少年、つまり花郎に同じ役割を代行させた。『三国史記』という高麗時代の歴史書には、そう書いてある。
花郎という存在を、どう解釈したらいいか。その点をめぐり1930年代の後半に、論争がおこっている。
花郎は、女装者であったろうと、三品彰英は考えた。これを池内宏は、はねつける。花郎に女装をした証拠はないと、反論をこころみた。どちらも、朝鮮史にくわしい歴史家だが、ことなる結論へたどりついている。
『三国史記』じたいには、こうある。「美貌の男子を選び出し、これに化粧をさせ、美しく装わせ」た、と(井上秀雄訳『東洋文庫372』1982年)。そして、女を演じさせたという記録は、そこにない。
三品の読みは、美女の後継者なら女装もしただろうという推理に、ねざしている。しかし、ただの臆測にはとどまっていない。戦士の女装については、周辺諸民族の人類学的な報告も参照した。そのうえで、花郎が女装をしたという結論は、ひねりだされている。
いずれにしろ、論争は新羅の花郎を有名にした。後へつづく研究者のなかには、これをヤマトタケルの読解へつなげる者も、あらわれる。ヤマトタケルは、対クマソ戦で女になりすました。あれも、新羅の花郎と同じで、一種の戦時女装にほかならない、と。