17世紀の古浄瑠璃が落とした影

あと一冊、『教訓史話 偉人と英雄』のことも、紹介しておこう。当時の童話研究会が1920年代に、人物伝の叢書を刊行した。児童用の教訓書集をめざしたシリーズでもある。その第6編に「日本武尊」が収録されている(1926年)。

なお、この本は、奥付にしるされた標題が『教訓童話』となっていた。『教訓史話』は、表紙にしめされたタイトルである。ここでは、とりあえず、よりめだつ場所に表記された『教訓史話』のほうを重んじた。検索をこころみる人がまよわぬよう、ねんのため書きそえる。

これによれば、クマソをひきいる兄弟は、巨大な城館をきずいていた。その新築いわいも、ひらいている。そして、そこでは以下のようなねらいもあり、美人あつめがもくろまれた。

「近国近在の美しい娘達をかり集め、それを酒宴の席に侍(はべ)らせ、己れ等の酒の酌をさせその中の美人といふ美人は残らず己れ等兄弟の妾にしやうと考へ、手下を八方へ出して美人を探し求めて居りました」(同前)。

よりすぐりの美人たちを我が物とすることが、めざされたのだという。この本が下じきとした『古事記』に、そういう記述はない。もちろん、『日本書紀』も、このようなことは書いていなかった。

だが、『あつた大明神の御本地』という古浄瑠璃には、それがある。1665年にしるされた台本は、美人あつめの宴会をえがいている。クマソの族長は、このもよおしで、美人のなかの美人をいとめるつもりだったのだ、と。『教訓史話 偉人と英雄』の「日本武尊」には、こちらがとどいていたのだろう。

ただ、17世紀の古浄瑠璃にでてくるクマソの族長は、「心にかなふ女」をもとめていた(『古浄瑠璃正本集 第五』 1966年)。「美人といふ美人」を「残らず(中略)妾にし」たがったわけではない。「日本武尊」(1926年)のえがくクマソ兄弟は、色欲をたぎらせる度合いが、より強くなっている。両者の美人あつめに違いがあるとすれば、そのぐらいか。

クマソの兄弟が美人をほしがっている。この情報を耳にした『教訓史話 偉人と英雄』のヤマトタケルは、よろこんだ。しめた、とばかりに、女装姿で敵陣へもぐりこむことを決断する。このくだりも、『あつた大明神の御本地』に、そのままある。

美人のむらがる祝宴で、クマソの兄弟はヤマトタケルの扮した女に、そそられた。あれは、「天から降った」女かと、ときめいている。『教訓史話 偉人と英雄』の「日本武尊」には、そんな場面がある。

このシーンにも、17世紀の古浄瑠璃は影をおとしていた。『あった大明神の御本地』も、宴席でのヤマトタケルをこうあらわしている。「天人のよう」である、と(同前)。その延長線上に1926年の「日本武尊」はあると見て、まちがいないだろう。