2 歴史

『日本書紀』によると、舒明天皇(631年、638年)や孝徳天皇(647年)などが行幸を行っている。

奈良時代に行基がこの地に温泉寺を開いて有馬温泉の基礎を築き、平安時代末期から鎌倉時代初期には仁西(にんさい)上人が湯治客のために、温泉寺の本尊薬師如来を守護する熊野十二神将に準(なぞら)えた12軒の坊舎を造ったことから人々が集まり、大いに栄えた。有馬温泉の旅館名に「御所坊」「中の坊」「角の坊」など、「坊」の付く宿が多く見られるのはこの伝統的な流れを汲んでいるからである。
また、平安時代には前述したように、清少納言が『枕草子』の中で、「湯は ななくりの湯 有馬の湯 玉造の湯」と記している。

この有馬の湯を大いに気にいったのが豊臣(太閤)秀吉で、たびたび湯治に訪れ、その回数は記録に残るだけでも15年間で実に9回にも及んでいる。

有馬温泉は火災や地震に見舞われ荒廃することがたびたびあったが、それを再三にわたり再興に尽力したのが太閤秀吉であった。このことにより、行基、仁西上人とともに秀吉は「有馬三恩人」として讃えられ、「太閤通り」「太閤橋」といった太閤ゆかりの地名が多く残っている。「湯けむり広場」の一角に秀吉の坐像があり、有馬川の赤い欄干の「ねね橋」のたもとには秀吉と見つめ合う形でねねの像も建てられている。

「湯けむり広場」にある太閤秀吉の坐像
「ねね橋」のたもとで秀吉像と見つめ合うように建てられたねねの像

江戸時代には「有馬千軒」といわれるくらいの隆盛を極め、近松門左衛門、伊能忠敬、頼山陽、林羅山などの多くの文人・墨客が湯治に訪れている。相撲の番付にならった「諸国温泉番付」では当時の最高位である西の大関にランクされ、共同浴場「金の湯」の玄関には「日本第一神霊泉」の石碑が建っている。横綱の地位が正式に確立したのは明治42年で、当時の東の大関は草津温泉であった。