3 万葉集

● 有間皇子

(1)「磐代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまたかへり見む(巻2―141)」

(磐代の浜の松の枝を引き結んで(神に祈っていくが)幸いにも無事であったなら、またここに立ち寄ってこの松を見たいものだ)

(2)「家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(巻2―142)」

(都の家であれば美しいお椀に盛って食べられるのに今は旅、しかも囚われの身、椎の葉に盛って食べることよ)

斉明3年(657)に有間皇子が病気を装って牟婁の温湯(ゆ)を訪れた。翌斉明4年(658)には斉明天皇と中大兄皇子が行幸を行い、この時「有間皇子事件」が起こり、有間皇子は謀反のかどで飛鳥から牟婁の温湯に護送される。牟婁の温湯での詮議は不問に終わり、希望どおり再び磐代の松を見たのも束の間、数日後には海南市の藤白坂で絞殺されてしまう。時に皇子19歳。

この2首は「有間皇子自(みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首」という題詞がついて、万葉集巻2の挽歌部の冒頭に収められている。

白良浜海水浴場の近くの公園には哀悼の意を込めて「有間皇子之碑」が建てられ、裏面には前記の挽歌2首が刻まれている。

有間皇子之碑
裏面に刻まれた皇子の挽歌

●長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)

「風莫(かざなし)の浜の白浪いたづらにここに寄り来る見る人無しに(巻9― 1673)」

「風莫(かざなし)の浜」とは『紀路歌枕抄』によると、波が静かで繋ぎ綱もいらないほど凪いだ浜で、白浜町の綱不知(つなしらず)(桟橋さんばし)のことを言う。