ヤマトタケルの知名度低下もやむをえなかった

その国定教科書に、国語だが、ヤマトタケルの話がのっている。西征の女装譚も、掲載されていた。ここでは、第三期国定国語教科書、尋常小学国語読本巻五のそれを、紹介しておこう。

小学3年生むきの教材だが、クマソのタケルをうつくだりは、こうつづられていた。

「尊(みこと)はかみをといて、女のすがたになり、つるぎをふところにかくして、其(そ)の家の中へおはいりになりました(中略)たけるは尊を見つけて、自分のそばへ呼びました。夜がふけて、人々はかへりました。たけるも酒によつてねむりました。此の時尊はふところのつるぎを出して、たけるのむねをおつきになりました」(『日本教科書大系 近代編 第七巻 国語(四)』1963年)

ほかの児童書とちがい、『古事記』にはしたがっていない。話の大筋は『日本書紀』をなぞる形でまとめられている。クマソの代表も、兄弟ではなくタケルひとりとなっていた。

しかし、女のふりをしてテロへおよんだところは、はっきり書いている。のみならず、この教科書は、そのイラストもそえていた。女になりすましたまま、タケルをくみふせる。そんな図を、挿絵としてつかっている。

大日本帝国の教育は、女装皇子の闇討ちを、麗々しく子どもたちにつたえていた。ひきょうでみだらな気配もあるから、かくそうとはしていない。英雄的な行為として、大々的にとりあげていたのである。

戦後の学童は、こういう話をおそわらない。学校の授業は、女装譚にかぎらず、ヤマトタケルらをとりあげなくなった。その点では、知名度の低下もやむをえなかったと考える。

くりかえすが、戦前の小学校はヤマトタケルの女装譚を、生徒におしえている。国語の教育で、この伝説を紹介していた。戦後に仕事をした国文学者も、みなこれを読まされている。