吉井巌の告白

1922年生まれの吉井巌も、そんな学徒のひとりにほかならない。

研究者としては、天皇の系譜を神話でたどる作業に、いそしんだ。『ヤマトタケル』(1977年)という著作もある。なかで、吉井は戦前期にうけた国語教育を、ふりかえる。

自分は小学3年の時に、ヤマトタケルのことを学習した。ただ、何をどうまなんだのかは、おぼえていない。ごく近年まで、わすれていた。しかし、昔の教科書を復刻版で見た時に、はっきり想いだしている。とりわけ、その挿絵には、記憶の回復を強くあとおしされたという。

吉井は、自分がたどったそんな心のうごきを、こう書きだした。

「さし絵をみた時、まざまざとよみがえってくる古い記憶があった。それは女装したりりしい皇子のヤマトタケルが、熊襲たけるを組みしいて、短剣をその胸に突きおろそうとしている絵である」。

女装の皇子が、まさに凶行へおよぼうとする。その瞬間をとらえたイラストが、決定的であった。これとの再遭遇が、脳裏へかつての想い出をよぎらせたのだという。さらに、吉井は言う。この絵でまなんだ多くの日本人も、つぎのようなヤマトタケル像をいだいてきたろう、と。

「多くの人々にとってヤマトタケルは、古代を代表する人の一人であった。しかしその時のヤマトタケルは、先にあげた小学校の教科書の熊襲たける討伐の話にみられるような、美しくてりりしい少年皇子の姿を核とする姿であるのではなかろうか」。

女装のにあう皇子が、敵陣へ単身のりこみ、その大将をほうむりさる。その美しさと勇気で、ヤマトタケルは国民におぼえられているという。また、自分も同じヤマトタケル像を共有してきたと、吉井は告白する。つぎのように。

「大学で国文学を学び、『古事記』を講読した私も、長い間、この教科書にみえるような、りりしい勇ましい皇子のヤマトタケルを核としたヤマトタケルを心のなかにもちつづけてきた」。

にもかかわらず、あえて吉井はこの国民的と言っていい認識にあらがう。はたして、こういうヤマトタケル理解に安住していても、いいのか。研究者となった吉井は、そこに疑問をいだきだす。

「『古事記』のヤマトタケルの話の大筋をたどってみると、その話が美しくりりしい皇子の話として片づけてしまえない、より重要な内容を基本として語られているものであることを認めないわけにはゆかない(中略)私は『古事記』をよみ、ヤマトタケルの話の訓話をおこなっているうちに、私のヤマトタケル像からだんだんと離れてゆくのを感じた」。

ヤマトタケルを、もっぱら美形の勇者としてのみとらえるべきではない。女装譚の背後には、もっと奥深い何かがひそんでいる。『古事記』ととりくんで、自分にはそのことがよくわかったというのである。