いずれは、私なりの決着をつけたい

私の知る中国からの留学生は、おしなべてヤマトタケルの女装譚をけぎらいする。ずるいうえに、いやらしくうつる。英雄的には見えない、と。

だが、吉井はそのヤマトタケルを「りりしい」と評する。また、そうとらえる姿勢じたいは、研究の途へすすんでからも、かえていない。『ヤマトタケル』を世に問うた時点でも、同じ評価をたもっていた。ただ、「りりしい」ことそう思っていたようである。「りりしい」と感じるだけでは、学問がみのらないと言ったまでである。

しかし、女装譚のヤマトタケルが、無条件に「りりし」く見えるわけではない。たとえば、中国からくる人たちは、淫靡で狡猾だとうけとめる。そのヤマトタケルを、吉井は「りりしい」と感じた。なぜ、自分にはそれが「りりし」く見えてしまうのか。そこを問いなおそうとはしていない。

この批判を吉井は、物故者だが、軽くうけながすだろう。自分は上代文学の研究者である。古い時代の価値観を見きわめることが、自分の仕事になっている。近代の国定教科書にたいする感想を問いただされても、こたえられない、と。

吉井ひとりにかぎった話ではない。ヤマトタケルを論じた学徒は、たいてい上代文学や、いわゆる古代史の専門家であった。女装でテロにおよぶ皇子を近代人は、ついつい「りりし」く思ってしまう。その謎には、誰もいどんでいない。

江戸時代の浄瑠璃が、芸能世界のなかでよみがえらせた。そんな女装皇子の姿が、近代をむかえ、国民的な規模で肯定的に語られる。大日本帝国の国定教科書まで、大きくとりあげた。少年少女の英雄像にさえなりおおせている。私はこの経緯を、語るにたる歴史的な変容だと考える。

だが、今日にいたるまで、学者たちは手をつけようとしなかった。そこに、私はいどむつもりである。いずれは、私なりの決着をつけたいと、思っている。

ただ、ヤマトタケルを論じることは、ここまででひかえよう。連載も、最終回ということにさせていただく。長いあいだ、おつきあい下さり感謝する。最終的な結論は、単行本としてまとめる時に、下したい。

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