もう運転はしないが、免許証は手放したくない
私は父の家に行き、父が帰宅するのを待っていた。「ただいま」と言って居間に入ってきた父は、コートを脱ぐと、自慢げに、認知機能検査の会場が記されたA4の封筒を、食卓テーブルに置いた。私は知らんぷりしてわざと聞いた。
「パパ、どこに行っていたの?」
父は平然と答える。
「免許更新のための講習を受けてきた」
「その前に、認知機能検査もあったでしょう?」
「あぁ。俺も年を取った。93だからな……3年前より、点数が下がっていた」
客観的に老いを見つめる目を、認知症になっても父は失っていない。長生きすることの悲哀を感じた。やがて私もそのように、衰えを自覚する日が必ずやってくる。父を責めるのをやめようと一瞬思ったが、私だけでなく、家族みんなにとって一番の懸案事項だ。引き下がるわけにはいかない。
「講習を受けたのは仕方がないとしても、免許証更新はしないでちょうだいね」
「いや、免許証は持っていたい」
「どうして? パパは自損事故を起こして、車が壊れて廃車になったのを覚えていないの? 運転する車がないんだから、免許証はいらないよね」
私が強い口調で言い返すと、父は少し悲しそうな表情をした。
「事故のことは覚えていないけど、車がないことはわかっている」
他人事のように言う父。自分の現状をわかっているのかいないのか、私が怒っているのを察知した「とりつくろい反応」なのか、父の本心が見えてこない。私はお茶を入れてテーブルに運び、父の真正面に座って言った。
「車がないのに、なぜ免許証が必要なの?」
父は私から目を逸らさずに、堂々と答えた。
「逆だな。運転しないのだから、免許証を持っていても構わないだろう?」
私は言葉に詰まった。確かに父が運転をする可能性はもうないだろう。何より、父の愛車は廃車になったし、自損事故の後ディーラーからは、「車は売れない」と断られた。レンタカーも借りられないだろうし、父がハンドルを握ることはもうないはずだ。
返答に困っている私に追い打ちをかけるように、父は切々と訴える。
「60年以上持ち続けた免許証を手放したら、自分が自分ではなくなるような感じになる。無事故無違反の証明として、ゴールド免許を持っていたいんだ」
私は父のマイナンバーカードも作ってあげたし、免許を返納したら身分証が発行されることも説明した。しかし、父にとってそれらは「ゴールド免許」の代わりにはならないのだろう。
今日のところは、私は文句を言わないが、相槌も打たない。その変わり、翌日、父がトイレに行っている間に、認知機能検査結果と高齢者講習受講終了証が入った封筒を、目立たない場所に移動した。
これまで父は、誕生日の1ヵ月前に免許を更新してきた。あと3ヵ月でその日がやってくる。父の気持ちを変えさせるために、私は何をしたらいいかを考えなければならない。