新劇、映画、テレビ、全部いい時期にお仕事ができた
俳優座の養成所というのは新劇の俳優を育てる場所だったので、私は新劇の道へ。でも、新劇ってなかなかお客さんが入らないから劇団にお金がなくなっちゃった。それで「映画で稼いでこい」と言われ、養成所の1年先輩だった小沢昭一さんと2人で、舞台活動と並行して日活と契約。53年には『ひめゆりの塔』の女子学生役の1人として映画デビューすることもできました。
その頃は映画がものすごく盛んで、映画会社5社が週に2本ずつ封切りしていたんですよ。だから私も午前中は女子大生を演じ、午後は芸者をやる、みたいな感じで働いて、たくさんのことを勉強させてもらいました。
ちょうどその頃はじまったのがテレビ放送。欲張りな私はテレビのお仕事も引き受けました。当時のテレビ界は「電気紙芝居」とばかにされていたこともあり、映画に追いつけ追い越せで、すごい熱気。
生放送に向けて1週間も稽古したり、視聴率という言葉もなかったから数字を気にせずとにかくいいものを作ることだけを目指して。三島由紀夫さんの『橋づくし』や林芙美子さんの『清貧の書』など文芸ものが多く、私も夢中で取り組みました。
だから、私、本当に恵まれていたんです。新劇は一番華やかな頃だったし、映画はもっとも元気な時代、テレビは草創期の活気にあふれていた。それぞれのいい時期にお仕事をすることができました。
今の時代だったら、私、全然ダメだったと思うんですよ。別にスタイルも良くないし、美人でもないし。ただ当時は、ちょっと個性的みたいな感じにとらえてもらえたのね。時代が味方をしてくれた。それもあって、舞台、映画、テレビと68年間本当によく働きました。