好きな公演を見ているとき、幸福ではあるけど、それはただ好きだからというだけでなく、好きだからこそ生まれた欲求が満たされているからだと思う。好きは、夢や欲が増すことで、好きと思うだけで何かが満たされるわけではない、好きなものができる前だって私は何かが足りなくてずっと何かが満たされなくて不安で恐ろしかったし、そしてそうした飢餓感というか、どうしようもない「足りなさ」は今も大して変わっていないと感じる。それでも、その「足りなさ」に理由がもらえた。自分が何を欲しているかが明確にわかるようになって、自分のわけのわからない不安や孤独に答えが出た気がした。そしてそれはすべてが満たされることより、ずっと私に安心をくれる。

 他の人がどれほど、理由もなく寂しくなったり不安になったりするのかは私にはわからないけれど、私は急に、自分のこれまでやこれからがすべて間違っているような不安や、自分のすべてを信じられなくなりそうな瞬間があって、そのたびに「理由がないこと」に一番に怯えていた。人生には答えがなくて、物語みたいにそれぞれの出来事に伏線や完結があるわけではなく、いつまでも終わらないし区切りもつかないから正しかったかどうかなんて永遠にわからないままにされる。自分の考えのすべてが自分にわかるかも怪しく、どうしてそんなことをしたんだろうと自分自身に思うこともある。でも、それなのに自分の人生からは逃れられないのだ。そうした大きくなりすぎて、全貌も見えなくなった自分と自分の人生への不安にたまに飲まれてしまうのだろう。第三者が言う「答え」に惑わされそうになったり、未来の自分が今の自分に下す結論に(未来の私だって正しいわけじゃないのに)ずっと怯えたりもした。そういう中で、その不安のすべての答えになるわけではないが、それでも、辛さや悲しさに理由をくれる「好き」は私にとっては安心だった。

 私はこれがしたかった、私はこれを夢見ていた、そうはっきりわかるだけでそれらが叶わなくても、私は安心して不安でいられる。多分それ以外のこともいっぱい不安でどうなるのかわからないことたくさんあるんだろうけど、それでも真っ直ぐに見据えられるものが一つあるだけでなんとでもなる気がした。私は私の判断で私のわからなさに向き合っていい、と自信をもって思えるようになる。あの不安が生きづらさなら、やっと私は私の生きづらさを、自分だけのものにした。