好きなものができると、人生は豊かになる、幸福になると言われるとき、私は少しだけ苦しくなる。好きであればあるほど、私はたまにとても悲しくなり、つらくなり、そしてそのたびに私はその「好き」が、自分のためだけにある気がして、誰かのための気持ちとして完成していない気がして、いたたまれなくなる。好きな存在にとって少しでも、光としてある気持ちであってほしいのに、私は、どうして悲しくなるんだろう?
 私は、宝塚が好きです。舞台に立つ人たちが好き。その好きという気持ちが、彼女たちにとって応援として届けばいいなと思っている。そして、同時に無数のスパンコールが見せてくれる夢の中にでも、悲しみもある、不安もある、そのことを最近はおかしいと思わなくなりました。未来に向かっていく人の、未来の不確かさをその人と共に見つめたいって思っている。だから、そこにある不安は、痛みは、未来を見ることだって今は思います。好きだからこそある痛みを、好きの未熟さじゃなくて鮮やかさとして書いてみたい。これはそんな連載です。

 これを書いている今日は、大好きな舞台の千秋楽です。
 無事に幕が上がるようでほっとしています。

 終わりが無事に迎えられるということは、公演が行われることが当たり前ではない今では、本当に良かったこと、でありながら、でも終わってほしくないとものすごく思ってしまう。私はこの公演が好きだし、できることなら毎日見たかったし、それが叶わなくても幕が上がっていることだけでも知れたらそれで幸せだった。同じ舞台を何度も見に行くことについては、舞台は生きてるからとか、常に変わっていくから、とか、一度では見切れないものが多すぎるから、とかいろいろ説明のしようはあるのだけど、でも本当は、好きだから、の一点だけだ。何回見に行っても同じところを結局見ているし、前回との違いを見つけて喜ぶこともあるけど、別に違ってほしいわけではない。何度も見ないとわからないものだから何度も見に行っているのではなくて、好きな公演だから自分の中で終わらせたくないだけなんだと思う。

(イラスト◎北澤平祐)

 忘れたくないし、過去になるのが嫌。舞台はいつだって見ているときが最高で、終わってしまうとどんなに衝撃を受けても、見ていたそのときの鮮烈さのすべては思い出せなくなる。忘れるなんてありえない、きっと大切なことは覚えているって思うけど、思い出すこととその時の感覚は違うってわかるから。忘れたくないというより、ただ、時間を止めたい。好きな存在を鮮明に自分の中に存在させておきたい。好きと思ったその瞬間のままでいたい。だから、アップデートし続けるみたいに何度も見にいく。見ている最高の時間を永遠にしたいだけだ。