筆者の関容子さん(右)と

その簑助師匠が突然の病いに倒れるのが平成10年の11月。大阪の国立文楽劇場で『仮名手本忠臣蔵』通し上演の最中だった。

──師匠はおかると、九段目のお石と二役遣っておられました。七段目が終わって楽屋に(片岡)仁左衛門さんが来られることがわかってたんで、師匠はザッと汗を流しにお風呂に行かれたんです。ところがなかなか出て来ない。それで見に行ったら倒れておられた。すぐにも病院につき添って行きたかったけど、九段目のお石を代わってから、となって。もう、頭が真っ白になりました。

しかし、師匠の熱心なリハビリの末、翌年の夏には復帰されましたんでね、ほっとしました。

 

「勘十郎を継がなあかん」

そして簑太郎改め三代目桐竹勘十郎となるのが平成15年。これが第三の転機となるのではないだろうか。

──そうですね。この襲名がなかったら、今の私は多分ないでしょうね。父が亡くなったころの私と比べたらもう、別人みたいになってると思います。

襲名というのは大きいですね。名前がいつもね、どこか押してくれてるんです。それと先代がここまで大きくした名前やから、ちょっとでも落とすと申し訳ないのでね。