「師匠は滅多に言ってくれません。言われ癖がつくと自分で考えなくなりますからね。自分でいつも考えて、不安になってるくらいがちょうどいい」(撮影:岡本隆史)
演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続けるスターたち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が訊く。第7回は人形遣いの桐竹勘十郎さん。子供のころから劇場が遊び場みたいなものだったと語る桐竹さん。生涯の恩師となる吉田簑助師匠とは、生まれたときからの縁があったそうで――。(撮影:岡本隆史)

<前編よりつづく

思ってもみなかったことが……

文楽人形遣いの修業は足遣いが10年以上、左遣いも10年以上で、首と右手を遣う主役級の主遣いにはなかなかなれるものではない。

勘十郎さんが主な左を任された33歳のとき、父二代目が66歳で急逝する。

──父の死は第二の転機ですね。自分自身がものすごく変わったんですよ、このときから。本当に、思ってもみなかったことが身近で突然起きましたからね。なんかもう、茫然としました。ということは甘えていたということなんです。

33なんて言うたら、この世界ではまだまだで、最後に足遣ったのが30歳のときやったんです。それはよう憶えてる。親父の『夏祭浪花鑑』の団七の足。その後はいろいろな左をやらせてもらうようになって、その途端でしたからね。ショックでした。

僕はもう結婚して、子供もできて、じゃあ実家を二世帯の住宅に建て直そうとなって全部更地にして、仮住まいに住んでるときに父が亡くなったんです。工事が始まって、これ誰が払うの、って話ですよね。必死に働きました。しかし働くには人から声をかけてもらわないといけない。そのためには自分の腕を上げるしかないわけで、もう頑張りました。

それでちょっとマシな人間に、大人になれたんだと思います。父の死はやはり私にとって大きな転機でしたね。