好きなものができると、人生は豊かになる、幸福になると言われるとき、私は少しだけ苦しくなる。好きであればあるほど、私はたまにとても悲しくなり、つらくなり、そしてそのたびに私はその「好き」が、自分のためだけにある気がして、誰かのための気持ちとして完成していない気がして、いたたまれなくなる。好きな存在にとって少しでも、光としてある気持ちであってほしいのに、私は、どうして悲しくなるんだろう?
 私は、宝塚が好きです。舞台に立つ人たちが好き。その好きという気持ちが、彼女たちにとって応援として届けばいいなと思っている。そして、同時に無数のスパンコールが見せてくれる夢の中にでも、悲しみもある、不安もある、そのことを最近はおかしいと思わなくなりました。未来に向かっていく人の、未来の不確かさをその人と共に見つめたいって思っている。だから、そこにある不安は、痛みは、未来を見ることだって今は思います。好きだからこそある痛みを、好きの未熟さじゃなくて鮮やかさとして書いてみたい。これはそんな連載です。

 宝塚はとにかくファンレター文化です。

 応援している人に手紙を書いているとき、私はまず、どうやっても「相手は他人だなぁ……」と思い知り、全くの他人なのだし何も言えることはない気がする……と突然冷静になり、そしてなのになぜ書きたいんだろう……とうつろな目をしてしまいます。やたらと言葉を書く仕事をしているからか、特定の人に何か言葉をかけるなんてとんでもないことだ、と必要以上に思っている節があり、手紙もメールも事務連絡以外は苦手だし、書こうとすると私は何のためにこれを書くのだろう、それは本当に相手にとって意味があるのか?と考え始めてしまう。宛先がない作品は、海に石を投げて波紋を作るようなことなので、受け止める人がその作品をどう捉えるか、というか受け取るか否かすら全てを決めることができるし、だからこそ私も平気だしとても自然なことだと思うのです。でもファンレターのように宛名があって、相手が受け取ってくれる前提があるときは、そこに届ける言葉は相手にとって意味がなければいけないような気がしてしまう。だけど、相手にとって意味があるかどうかを重視するのは、どこかで書く理由を相手に作ってもらおうとするようなそんな期待がある気がして、いやそれは違うのでは?書くのは私なのだから、私の中で全てを納得させないとダメなのではないか!?と最終的には力技で自分のネガティブをねじ伏せて書いている。ファンレターは励みになる、という話を舞台に立つ人たちはよくしてくれるし、それは嘘ではないだろうし伝えてくれるのは大変に優しいと思うのだけど、そうした優しさに肯定されたがる自分って何だろうと思ってしまうのです。卑屈ではなく事実として、私は献身のつもりで手紙を書いているわけではない、と知っているから。書かねばと思った瞬間があり、それは相手が望まなくてもきっと湧いた感情だから。望まれているからそうしているなんてどうしても言えないのだ。言ってしまえば私は、伝えたいことがあるから書くのだ。それは何かって、好きです、応援してます!のみであり、たとえ相手がそれを励みに思わなくても伝えたいのが本心だろ、ということをまず認めないと私はどうも書き始められないようなのです。

(イラスト◎北澤平祐)