お手紙を書くときほど、己との戦いだ……と思うこともない。心がかなり強くないとファンってできないのでは?と考えたりもするし、大抵書き始めるときは「強くいろ!負けるな!」と自分を鼓舞しています。私は勝手にこの人が好きで、しかも好きと伝えようとしている……勝手すぎる!なぜ!どうして!?という気持ちと戦いつづけて、そうしてふと、あなたを好きな人がいるんですよと公演中、客席から伝えたくなる瞬間があることを思い出す。宝塚は舞台の上にもたくさんの人がいて、全ての人が自分を見ている時間ってトップスターさんとかをのぞいては滅多に訪れないのではないかと思う。私にとってはその人は視界の真ん中にいて、その人が舞台に立ってくれるから楽しい時間が過ごせるし、あなたの仕事は素晴らしいって、私はやろうと思えば全力で世界に証明できる……みたいな謎の確信で胸がいっぱいになる。「好き」は多分そういう形をしているのだ、一つの心配も悲観もなくその人をただただ素晴らしいと思えたときの、未来が少しも恐ろしくないと信じられる感覚。あなたが素晴らしいだけなのに、私の方が「未来が怖くない」と思えてしまうの、不思議だ。好きな存在がいるからこそ、どうやってもその人もいるであろう未来は、美しいだろうと信じられる。世界そのものが愛おしく思える。不思議だし、このめいっぱい未来の全てが明るく思えた私の喜びが、私ではなくあなたにこそ訪れてほしいと願ってしまう、そうでなくてはおかしいって思ってしまうのだ。

 素晴らしいことをしてるって気づいてほしい、どんな日もどんなときも自分が舞台に立つことに疑問や不安なんて一瞬も持たずに、そこに全力の報われる幸福と、確信があるといいなって思う。先の見えない日があるとしてもそこでさらに一歩を進めるために必要な希望が、その人の中にあり続けてほしいって思う。それを自分の応援が後押しできるとかは全く思わないんだけど、もはや祈りとしてあるんだ。

 一つのことをずっと追究するのは、どんな道でもやっぱりしんどくて、自分にしかできないもの・作れないものを作ろうとするとき、「自分」のお手本なんてないから、自分が自分の決めた方角を信じるしかなくて、その「信じる」っていう勇気が、できる限りどんな日も陰ることがないといいなって思うのです。そして私は多分、好きとか関係なく、物を作る人全てがそうであったら一番なのになって思っている。そして、好きな人たちにはより、(それは優しさとして)そう思うかなぁ。