本当は私の気持ちでなくてもいいのだな、と書いていると思う。ひたすらいつもその人自身のなかにある不安や翳りが少しでも消えることを祈っている、というそれだけで、私は私として手紙を書いて、私がどう思ったのかを書き綴りながら、私がどうとか関係ないんですけど!?という思いがすごくある、でも祈りたくて、私は私としてしか振る舞えないから、しかたなく自分の気持ちを語るのだろうと思う。神様になって、あの人たちがしんどい日の窓から差し込む光がめちゃくちゃ綺麗になるように魔法をかけたいな……と思うし、そういうことができるなら手紙を私は書かないだろう。魔法が使えないから言葉を書いています。私が私であることにこんなにも意味のない時間はなく、その人しかない空間の幸運を願っている、私の手書きの文字なんて届かなくていいんですけど~!?と半泣きになりながら、謎の書きにくさと不安と自信のなさに呑まれながらも私は私の気持ちを、覚悟が決まった武士みたいな顔で書いて完成させる。たぶん、平気になる方法はいくらでもある、宝塚の人たちはお手紙に慣れているからみんな本当に心から励みにしているんだろうなというのも知ってる。でもそういう話ではなくて、私が一番思っている祈る気持ちをそのままで持っておくために、私は私が苦しいのをそのままにしておきたいって思うんだ。

 「好き」っていうのはたぶん、「祈っている」という言葉に近いのだと思います。ファンレターは特にそうかもしれません。その人が見ているその人だけの世界が、まっすぐでずっと晴れ渡っていれば良いなと思うし、私はそこにいたいとは思わない。が、その祈りを届けるためには私は私でなければならない。神様みたいに人知れずお天気を良くすることなんてできないから、私は私個人の話として、好きですよと伝えるしかできないのです。というか、手紙がなければそれさえも十分に伝えられないのだ。なんて弱いんだろう、あんなにも無数のものをもらっておいて、不甲斐なさすぎて自分が情けなくてどうやっても己に勝って手紙を完成させねばと思います。なんで自分の気持ちなんて書かなきゃいけないんだろう……さっさと宝塚市の空気を浄化するためだけの植木になりたいが……とは多分永遠に思うのですが……(植木は偉いよね、空気をきれいにしてんだから……)。それでも彼女たちが観ているのは客席なので、そこに植木は座れないので、私は私として手紙を書くのでしょう。いつまでも自分の言葉なんて送らなくてもいいじゃないかとうめきながら、あなたのことをとてつもなく好きな人があなたの視界に広がる客席にいるよ、ということを伝えるためだけに、私は文字をずっと書き続けるのだろう。