時政追放は「武士の指針」としてまずかった
下克上の戦国時代では、主君は討って良い。子どもは殺害する。けれど、父親殺しはNGです。
親を討ったのは美濃の齋藤義龍くらいじゃないかな。「まむしの道三」を討ち取ったわけですが、あいつは人の道を外れている、と指弾されるのを怖れて、「私は斎藤道三の実子ではありません」と言い出した。
さらに「斎藤という姓は私にふさわしくありませんので、これからは母方の一色を名乗ります。重臣たちも、一色家の重臣にふさわしい姓に改めさせます」なんて言って、実行しています。
それだけ親殺し、は不都合だったのでしょう。ああ、だから武田信玄も、クーデターを起こして家督を乗っ取りますが、親の信虎を殺さずに、追放でとどめているんでしょうね。
それを踏まえると、北条義時が父親の時政を政治的に追放したのも、実にまずい。
北条氏は武士の指針でなくてはならない。ところが、「鎌倉の主としての北条氏」が成立する過程で、親を否定する一種の”タブー”行為が行われた。これ、どうするか。
『吾妻鏡』を編纂した人々は、そこで、重忠を持ち上げる作戦をとったのではないでしょうか。
畠山重忠はこんなにもすばらしい御家人だった。武士の鑑だった。けれども、老境にさしかかって見境がなくなった時政は、後妻かつ悪妻の口車に乗って、無実であり、娘婿でもある重忠を滅ぼしてしまった。
こんなダメダメな時政では、義時サマに追放されても仕方がないではありませんか、ねえ、みなさん。
『吾妻鏡』はそう言いたかったのではないでしょうか。