独学でテニスの指導法を身につけたウィリアムズ姉妹の父親を手本に、マックスも資料や動画を参考にしながら娘たちにテニスを教え始めました。
ときどき聞かれるのですが、私たちはこれまで一度も「もしかしたらダメかもしれない」と思ったことはないんです。天才肌のまりに対して、なおみは努力の人。小さいころからこうと決めたら驚くほどの集中力を発揮したし、2人の才能を疑ったことはありません。
それに、とにかく決めちゃったから。ほかの可能性なんて考えられなかったし、そんな余裕はどこにもなかったんです。子どもたちも自分はプロのプレイヤーになると信じていました。本当にそれでいいのか確認したこともあるんですけど、「心配しないで、お母さん」という感じだった。(笑)
日本は子どものためのテニス大会が少なく、一流の選手を育てる環境としては改善の余地のある国です。そこでマックスは、自分の家族がいるニューヨークへの移住を決断しました。2001年のことです。なおみの幼稚園が希望のところに決まったばかりで私は乗り気ではなかったけど、それを聞くようなマックスではありません。
ニューヨークでは、義母の家の2階を間借りしました。亡くなった義姉の3人の子どもたち、夫の異母弟、遠い親戚からハイチにいたころの乳母親子まで、総勢10人以上が暮らしていたと思います。お義母さんの作るごはんはとてもおいしくて、このときハイチ料理を教えてもらいました。
ただ、コーチに専念する夫に代わり、家計を支えるのは私の役目。日系企業で働き、努力して勤勉さと実力を認めてもらい、少しずつ昇進して、満足のいく給料をもらえるまでになりました。リストラなど容赦ないアメリカで働く厳しさ、マイノリティの家族として日常的に感じる差別もあり、精神的にはつらかったですね。